前編

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前編

「早苗さん、大丈夫ですか?手、止まってますわ」 後輩の美禰子の声で、早苗は意識の通り道にぽっかり空いた記憶の穴から奇跡的に生還した。早苗は縫い物、特に主人の篤志(とくし)の着物の解れを直している時に、過去のことを思い出して気がつけば陥没した穴の中で地面をひたすらに掘るように、意識の深層に嵌ってしまうのだった。嵌ってしまう、というより沈んでしまう、といったほうが正しいかもしれない。しばらく虚ろな目で茫洋と穴からの帰還を甘受していた早苗は、はっとして再び主人の着物にうっとりするほど滑らかに輝く針を通した。 「大丈夫よ、美禰子さんこそもうこんな時間よ。明日は早いからもう寝ましょう?」 「それを言いに来たんですわ早苗さん。昨日もここで夜更けまで起きてたんでしょう?いけないわ、上野の製糸工場ではそうやって無理をした私たちみたいな少女が労咳に罹って本国に還されたのよ」 「でも私、この通り元気よ?生まれてから今まで風邪なんて引いたことはないし、それに」 そういって早苗はに小さく反駁した。だが健気なは首を振ってそれを退けた。早苗の細く雪のように白い腕はなお主人の着物に針を通し続けていた。 「、、。お姉さま、お姉さまが病気になったら、私が看病します、けれど、万一労咳や癩病にでも罹ったら篤志さまはお許しになりませんわ、そしたらお姉さまは」 その次のことを言おうとして、心優しき彼女のは口を噤んだ。それでようやく彼女は針を動かす手を止めての卵のようにすべすべした肌を握って微笑した。それはまるで叢に隠れた小さな菫が風にそよいで凛とした花弁を覗かせるような瑞々しい感じがした。 「わかったわ、でも、、。もう少しでご主人様、、篤志さまの着物が直し終わるの。これだけは自分でしたいの、ごめんね」 彼女の瞳は昔日を懐かしげに回顧する優しげな眼差しに染まっていた。美禰子は溜息をついた。 「仕方ないですね、、。私がそばでお姉さまが寝ないように見守ります。なるべく早く完成して下さいね」 早苗の微笑に折れた美禰子の許諾に、彼女は悪戯っ子のような笑みを浮かべた。美禰子は経験的に、篤志のため、となった彼女が自分の意志を曲げることはないということを知っていたのだ。その日は寒い日だった。美禰子は畳の上で熱心に針を進める早苗を眺めながらふるりと震えた。だが生憎蒲団は下の階まで取りに行かねばならなかった。それを想うとより身体が震えた。まだストーブでさえ黎明期の頃だった。美禰子は黙って早苗の背中にぴたりと自分の背中を合わせて寄り添った。彼女は経験的に早苗の身体が温かいのを知っていたのである。 「お姉さまはどうして篤志さまがお好きなのですか?」 眠たげな声をあげて美禰子が囁いた。時折彼女は仔猫がそうするように目を擦るのだった。彼女はもう寝てしまいそうだった。そこで自分自身を如実に引き留めるため、大人しく遠慮がちな彼女の性格からは考えられないような碇を混濁の海中に投げ入れたのである。早苗はまた針を動かす手を止めて感慨に耽った後、呟くように言った。 「仙台の家族に売られて、知らないおじさんと汽車に乗って東京に来て、知らない間に工場に売られて、そこでは寝る暇もなく働かされてね、すべての時が私の存在を曖昧にしようとしているんだって気がついた時には私、死のうとしたの。でもどうしても死ぬことが出来なかった、、。この針が私を引き止めて離さなかったの」 早苗は篤志の着物から覗いている先が真珠のような光の露を帯びた針を美禰子にみせた。美禰子はその針の鋒が鋭く早苗の心を刺し穿いてしまったのではないかとこの話を持ちかけたことに後悔していた。そして自分も、母から貰ったキリストの磔刑が彫刻された小さな十字架のペンダントを想起せずにはいられなかった。 「お母さんと別れた時に持たされた唯一の餞別。あのとき、私が売られた日、お母さんは泣いていた。けれど引き留めてはくれなかった。代わりにってこの針を呉れたけど、割に合わないよね。でも実際に辛いことがあった時にこの針をみてるとね、励まされた気分になるの、私は私を見捨てた両親を信じられなくなっていたのにね。きっと私は針に縋るしかなかったのよ、私の両親が優しかったっていう過去が偽りじゃないようにそれを確証にしたかった、、。でもやっぱり死にたいと想う気持ちは変わらなくて、華厳や玉川にも向かった、けれどそれも失敗して、の繰り返し。そんな時に出逢ったのが篤志さまだったの、だから私は」 「お姉さま、今は楽しい?」 美禰子が消え入るような舌足らずな声で早苗の話を遮った。このままではまたお姉さまが穴に落ちてしまう、そう美禰子は考えたのかもしれなかった。幼子が必死に韜晦して赦しをこうように彼女は言った。彼女の睡眠欲はとうに追いやられたようだった。彼女の背中が微かに震えているのを早苗は感じとった。健気なは心配そうに早苗を覗き込んだ。早苗はにっこり頷いた。 「ここには篤志さまも居るし、可愛いもいるからね」 美禰子の顔が真夏の木漏れ日のような明るさを取り戻した。そしてだんだんと頬を紅葉に染めあげて足をぱたぱた揺らすのだった。月がその疵口を朧げに浮かび上がらせながら、自らが藍色になることを希求していた。
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