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仄かな光が薄汚い拘置所を照らしている。外界と隔絶された地下牢の電灯には一個の蠅でさえよりつこうとはしない。その光は畜生らの卑しめと嘲笑による唾棄の収斂に思われた。独居房の男はその光を菩薩が授けし蜘蛛の糸のように恍惚とした表情で眺めていた。
「N、出ろ。警部殿がお呼びだ」
白濁に醜く肥えた腹を隠して、中年の看守が独居房の鍵を開けた。縄で繋がれたNと呼ばれた男は光からその看守へと目を移したがその瞳は暗澹としていた。アンビバレントに紅潮した頬がNの姿を不気味にさせた。看守はNに括られた縄を飼い犬を散歩に連れていくようにぐいと引いた。しかし、ここで勘違いをしてはならないのが、この看守がNに対して侮蔑の情を抱いてはいないということだ。寧ろ畏怖をこの看守は潜在的にNに埋め込まれてしまっていた、と言っても過言ではなかろう。Nは徐ろに立ち上がり精神病患者を思わせる薄ら寒い微笑を浮かべて端正なその顔を故意に歪ませたのだった。
「原の抉りだした心臓は醜かった、、。失望した、人間の一番美しくあるべきところをみるために俺は脇差で奴を穿ったが、その対価として奴が差し出したのは雨に濡れた仔犬の陰毛に満たない塵屑だ」
Nはそう述懐する。それ以上彼は何も言わなかった。いつもこうなのだ。彼への事情聴取は彼の定義する「美醜」によって阻まれた。
「いつまで寝言を言っておる!」
取り調べに応じた刑事はみな似たようなことを言って彼を罵倒し、その岩に蚯蚓が這っているような拳で彼を殴りつけた。だが彼は倒れ伏し、時に吐瀉物で池を造ろうと彼の「美醜」という価値観は棄てぬのであった。そして彼は切れた唇から噴き出した血液を舐めながら言う、
「あの針の女の喉が欲しい。あれに勝る美は三千世界のどこにもない」
と。
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