うさぎ日記

1/16
1人が本棚に入れています
本棚に追加
/16ページ
 私の日記には一羽のうさぎが跳んでいる。私だけのうさぎが。  五月八日 (火)  今日三組の、きくちさあやさん、がクラスに来てまで話しかけてきた。本当に来るとは思わなかったからびっくりした。  また、美術部に入ることになった。  ゴールデンウイーク明けの月曜日。高校生活が始まり、早くも一か月。学校に少しずつ慣れ始めた時。 私は学校帰りに駅前の商店街にある書店に立ち寄った。何を買うでもなく、ただ棚に並べられた背表紙を目でなぞっていく。興味を引いたものは手に取り、裏表紙のあらすじを読んでみる。この時間がなんとなく好きだ。平日の十六時はそこまでお客さんがいないから、落ち着いて本棚を見回すことができる。  「あっ」という声が聞こえ。とっさに本棚から目をそらし、私はその声の方へと顔を向けた。その先で、ひとりの緑のエプロンを着た店員さんと目が合う。もともと大きいぱちりとしているであろう目を、さらに大きくして驚きの表情をしていた。その人は私と同年代に見えた。たまたま目が合ったのではない。確実にその人は私を見て声を発した。そして、距離がそこまでないにも関わらず勢いよく私の方へ歩き出してくる。お互いの顔がぶつかるのではないかと思い、とっさに私は情けない声を上げながらのけぞってしまった。 「あの私、菊池沙彩って言います! あのえっと、有岡志乃さん、ですよね」  顔を赤くしながら早口で話し出す彼女は、まるで憧れの芸能人にあったような態度だ。「きくちさあや」という名前に憶えがなく、戸惑いと驚きの色が全身から漏れ出そうだ。 「あ! あの、私一応同じ中学で。吉岡中なの、高校も一緒なはずなんです。春野高校、ですよね」  やはり漏れていたみたいで、慌てたように付け加える彼女。私より少し背が低いから、自然と上目遣いで見つめられているような構図になっている。 「そう、吉田だし春野です。でも、ごめんなさい。私」  「きくちさんのことを知らない」と言おうとした時に、彼女は素早くはっと息を吸い込み再び慌てたような表情と口調になった。 「ごめんなさい! そうですよね、ごめんなさい」  きくちさんの語尾が弱々しくしぼんでいく。  彼女は目線を泳がせながら「うーん」「いやー」「えっと」とかを繰り返して俯きがちになっている。言いたいことがうまく声にできずもどかしそうだ。  彼女が次の言葉を探しているこの時、この会話の答えを二人ともわからない状態のまま、私たちの間には扱いづらい微妙な空気が充満してしまった。  すると突然、レジの方から「きくちさーん」と呼びかける声が店内に響く。彼女は顔を上げ、私の方へと一歩踏み出した。 「あのまた、学校で!」  それだけを言い放ち、レジの方へと駆け出した。  嵐みたいに過ぎたこの時間が、まるで不思議な夢を見ているような感じだった。私のことをどうやって知ったのか、まだわからない。中学も高校も一緒なのに顔も名前も知らない子がいたなんて、今まで自分がどれほど人と付き合うことに興味を示していなかったか、痛感させられた。  私は彼女の「また学校で」という言葉を本気にしていなかった。  翌日、彼女のことが頭の片隅に残ったまま私は登校した。通学路、生徒玄関で同じ制服を着ている人たちを無意識にひとりひとり目で追ってしまう。しかし、朝のその時間ではきくちさんを目にすることはなかった。登校のタイミングが全然違うだけなのかもしれない。それだけで私は、今日彼女と会うことはないだろうな、と勝手に決めつけていた。  高校生になってから、クラスメイトとは授業のディスカッション以外ではほとんど話してこなかった。だから廊下を歩く時も教室にいる時も誰かが横にいることはない。  お昼休み、別のクラスの人もちらほらいる賑やかな教室。私は自分の席で静かに一人でご飯を片付け、図書室で借りた小説を読んでいた。 「有岡さん」  私に話しかけたのは隣の席の千尋くん。みんなから「ちぃくん」と呼ばれているせいで、私はこの人の苗字をなかなか思い出せないでいる。 「あっち、呼ばれているよ」  千尋くんが指をさした教室前方のドア。そこから遠慮がちに顔を出しているのは『きくちさあや』だった。  千尋くんに「ありがとう」と言い、小走りできくちさんのところへ向かう。その間、私はすごくドキドキとしていた。会わないし、話さないと勝手に思っていたせいなのかもしれない。  きくちさんは私の顔を見るなり、ぱあっと顔色を輝かせた。期待を胸に満ち溢れさせている子供のようにも見えた。 「昨日はごめんね、びっくりさせちゃったよね」  私と同じ春野の制服に身をまとった彼女は昨日よりも幼く見えた。 「全然大丈夫だよ」 「それであの、志乃さんにお願いがあって、来たんだけど」  私からしたら、きくちさんは同じ学校だという共通点はあっても、見ず知らずの人だ。頭の中でこの子と接点があったか記憶の中を探るが、そんなものは全く出てこようとしなかった。  彼女は昨日の本屋での時の様子みたいに、言いたい気持ちと何かが心の中でせめぎ合っているように見えた。しかし、昨日と違ったことはそのせめぎ合いがすぐに終わったこと。 「美術部! に入りませんか」
/16ページ

最初のコメントを投稿しよう!