うさぎ日記

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 クリスマスの前日、私は嘘を吐いた。沙彩が「やっぱりここで志乃とケーキとかお菓子とか食べながら過ごそうかな」とか言い始めたからだ。  それを聞いて、木炭で線を引いていた手が止まる。それでも強引に手を再び動かし始めた。うさぎを描かなければいけないから。こんなことで止めてはいけない。  それが実現したら私は後戻りできなさそうだけれど、本当に幸せなことだろうと思う。  どういう気持ちで彼女がそう言いだしたのかはわからないが、私は彼女を止めた。 「せっかくのクリスマスだよ。優斗くんから誘われたりしていないの」  自分に言ってやりたい。「せっかくのクリスマスだよ」と。ただの十二月の中の一日がとてつもなく特別な数字になるその日。 「誘われてオーケーしたんだけどね」 「楽しみじゃないの」  無意識に筆圧が強くなっていたのか、木炭が濃く出てしまった。ガーゼでその部分を払う。 「楽しみなんだけど、考えただけで緊張しちゃうなあ。一緒に過ごせることはすごく嬉しいんだけど」 「行ったほうがいいんじゃないかな。あとからやっぱり行けば良かったーってなるよりは」  声だけを明るくして、私の表情は暗いまま。『優斗くん』が心底羨ましいけれど、私は彼女の背中を押す立場にいるんだ。いなければいけない。 「うん、そうだよね、そうそう!」 「『嬉しい報告』待ってる」 「うん、頑張る!」  とんだピエロだ。 「志乃はクリスマス予定あるの? 密かに恋人つくって一緒に過ごしていたりして」 「密かにって、そんなわけないでしょう。お母さんが見に行きたいって言っていたイルミネーションを見に行くんだ。私は家族と過ごすの」 「イルミネーションの写真、おすそ分けしてほしいな」 「綺麗に撮れるように頑張るよ」  沙彩に吐いた初めての嘘。  一ミリでも過ごせたらいいな、なんて思っていた考えは吹き消された。  私は沙彩の親友。力づくでも動かせそうにない真実の壁を前に立ち尽くしている。  イルミネーションの嘘はスマートフォンを家に忘れていた、ということにしよう。家族ので撮れば良かったじゃん、と詰めてくる子ではないから大丈夫だろう。  私は冬休みに入って日記を開いていなかった。文字にできなかった。醜いものしか出てこない気がしたから。キャンバスと向き合うだけで心の中の言葉を消費しきっていたのかもしれない。あの『うさぎ』に独り言で祈ることもあの日の一度きりだった。  クリスマスの次の日、沙彩から送られてきたのは、きっとおしゃれなカフェで食べたであろういちごのタルトの写真だった。見切れて上半身が少しだけ映っていたのは、きっと『優斗くん』だろう。メッセージに既読をつけてしまったら返すしかない、と思い沙彩が可愛いと言っていた猫が目をキラキラさせているスタンプを一つ送った。  クリスマス、私はもちろん家族とイルミネーションなんか見に行かなかった。母が見に行きたいと言っていたことは事実だけど。  朝からベッドに寝そべって目を開いたり閉じたりしていた。たまにスケッチブックを広げて絵の構成を再構築しようとしたけれど、なにも出てこなかったので机の上に放り投げる。そんな粗相をしたために、机に乗ったはずが、ばさりと音を立てて床に落ちてしまった。ようやくベッドから体を起こし乱れたスケッチブックを拾った。所々折れてしまったページを直していると、明らかに私の絵柄ではない絵を発見した。うさぎ。それも彼女が描いたものだろう。あの日、ルーズリーフに描いていた『専属うさぎ』と同じ目をしている。あの日と違うのは跳ねているのでなく、まっすぐにこちらを向いて手を振っている仕草をしていること。そしてうさぎの右上には「志乃ちゃん、ファイト!」と吹き出しの中に書かれていた。あの倉庫で私がトイレを済ましている最中にでも書いたのだろうか。  胸が締め付けられる思いだ。彼女の言動で喜びにも悲しみにも嫉みにも溺れることができてしまう。今頃、恋人を前に頬を赤らめて手を繋ぎ今しかない瞬間を過ごしている彼女。彼女に容易に触れられる『優斗くん』が羨ましい。羨ましい。  「ファイト」と応援してくれているウサギはまず、私を前向きにさせるところからだろう。そんな紙の中に閉じこもっていないで私の目の前に出てきて解決してほしい。私が彼女に「これ描いたでしょう」と咎めたらきっと「志乃の専属うさぎ、パートツー!」とか言い出すだろうな。  年末年始はお互い自分の家で過ごし、四日からまた倉庫で作業を再開することになった。  初詣は家族と行ったと沙彩から聞いて勝手に安心していた。私も家族と初詣に行き、無難に「体調を崩しませんように」と祈った。彼女のことについて祈っても叶わないと思ったから。神様がどうこうできるものではないと思ったから。ひねくれた考えが通り過ぎた後に「じゃあなんでうさぎに聞いたりした」と自問自答していたら、ただ落ち込むしかなかった。  冬休みにある程度進められたら、と言っていたわりに遅すぎる下書きを終えたのは五日の夕方頃だった。『優斗くん』と沙彩のことは自分が勇気を振り絞ったところで無駄なあがきだと無理やり奥底に押し込めたら、手が否でも進んだ。  本当の原動力は「私の『うさぎ』を沙彩に見せる」という思いで、最初から『優斗くん』は関係なかったのかもしれない。
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