うさぎ日記

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 もう少しで午後六時の美術室。始まった時は賑わっていた部室も、今では私と沙彩のふたりきりとなって、校舎全体もひっそりと息をひそめている。  私たちは高校二年生になっていた。沙彩と同じクラスになれたら、なんて思っていたけれどそれは叶わなかった。  沙彩のお願いを聞いてから、彼女と私は学校で話すようになった。部活に行く時は必ず沙彩が私を教室まで迎えに来てくれる。一緒に廊下を歩くようになった。校内で会ったときは当然のように挨拶をするようになった。帰り道、途中の駅まで一緒に歩くようになった。  沙彩という友達ができたから。  まだ制服が不自然に見える後輩の子たちは一歳しか年齢が変わらないのに、若さの象徴のように輝いて見えた。新入生が部活動に入るのは五月の第一週目だから、あとまだ一週間ほど時間がある。大半の生徒が部活を決めているこの時期でも、廊下の壁にはいまだに個性的でカラフルな部活勧誘のポスターが貼られている。  私たち二人が使っている机の上にはデッサンに使うモチーフ。名前もわからない彫りが深い石膏像。そのモチーフとイーゼルに立てかけられた画用紙を交互に見ながら、写実的に忠実に描こうとする。しかし、話が弾みすぎて手がただ宙をなぞっているだけに。私たち二人の話声だけが部室内に響く。 「本当に知らなかったの。本当なんだって」 「それでも三年のあの時期に部活に入りたいなんて、すごい勇気だと思うよ」  沙彩はあの時、美術部の入部を断られてしまっていた。美術部の三年生は文化祭が終わったら引退するという決まりがあるからだ。他の部活も同じくらいの時期に引退するので、沙彩はそのことを知っていたはずだ。そのことを聞いた沙彩がどれだけ悲惨な色を顔に出したのかわからないが、顧問の先生が「勉強に支障が出なければ、週一、二回程度なら来てもいいよ」と沙彩に提案してくれたそうだ。  私たちは時々この話題を出しては、毎回同じように笑い合っている。 「すごく感動したの。一気に引き込まれたし。志乃みたいに、ああゆう絵が描きたいって思ったんだもん」  そうして沙彩は決まってこう言う。その時私は決まってむずかゆい気持ちになり、ただ小さく笑うだけになってしまう。弾む会話のせいで滞っている手が余計に動かなくなる。 「わかったわかった」 「本当だよ? 今もはっきりと覚えているの。本当に日光が差しているみたいにすごくキラキラしていて、透明感がすごかったの」  何度も同じような言葉を聞いているのに、毎回初めて聞いたように喜びを感じる自分に笑いがこみあげてきそうだ。  初めてこの話題の会話をした時、お互い下の名前で呼び捨てにし始めたタイミング。沙彩のことを友達だと言えるようになった頃。美術部に入って二か月経った時だと思う。同時に沙彩からこの話題も出てきた。 「志乃は何で帰宅部だったの?」 「ああ、まあ特に意味はなかったよ」 「そうなの? 志乃が美術部にいないって知った時あんなに素敵な絵が描けるのに入っていないなんて! て驚いちゃったの」  控えめにも何か聞きたそうな沙彩の口調。  彼女にはなんとなく聞かせたくなかった。綺麗な内容ではないから。 「あんまり、明るい話じゃないからさ」  彼女の眉毛が一瞬だけぴくっと動いた気がした。先ほどまで澄んだ空気に少量の異物が混ざった感じ。そして、色白で綺麗な両手を顔の前でぶんぶんと振った。 「大丈夫! ごめんね、話さなくて全然大丈夫だから。志乃の絵が魅力的過ぎて、みんなの目が眩まないようにするため! て思っておくから」 「私が自意識過剰みたいじゃん」  異物はどこにもいなくなった。また、澄んだ空気。  沙彩が私のことを認識するきっかけになった文化祭に展示された絵。あの時はもう既に美術部を退部したのも同然だった。  私が部活をさぼるようになったのは中学二年生の秋頃。それと同じくらいの時、毎日のように行動を共にしていたグループの子たちとの間に亀裂が入った。きっかけは些細なことばかりだった、と思う。 「志乃はすごいよね。毎回賞取ってるじゃん。うちらは賞とかそんなに意識して描いていないもんね」 「全然集中力が続かないんだよねぇ。志乃はいつも黙って描き続けてるけど、何かコツとかあるの?」  なんでもない言葉なのに、私にはチクチクと違和感のある棘のよう聞こえた。「人と人」は合う、合わないがあること。知っていたはずなのに、私はなぜかそこのグループにいようとした。本当に些細な文字の羅列に私は隅の隅まで気を届かせていた。そんなに気にすることはないと今では本当に思うのに。 「志乃さ、付き合い悪すぎない? うちらが誘っても全然来ないじゃん」  彼女たちの言葉の中でどれが引き金になったのかは覚えていない。「なんでこの人たちと一緒にいるんだろう」と思ったその瞬間に、友達だったはずの人たちと美術部を同時に手放すようなことをした。  文化祭の時のあの絵は夏休みに先生に勧められて描いた絵だ。先生は「勉強の息抜きにでも」と絵を描くことに誘ってくれた。「部室で描いても、紙を持ち帰って家で描いてもどっちでもいい」と言われたから。 「せっかく描いたのですから飾ってもいいですか?今回は人物画や動物とかをモチーフにした作品が多くて、風景画も欲しかったんです」  多分、本当は私を絵が描ける環境に戻したかったのだと思う。さぼっていても「いつでも来てくださいね」と穏やかに言ってくれる先生だったから。絵 を描いている私を見ていつも優しく微笑んでいた先生だったから。  部室のドアが少し乱暴に開かれた。ドアを開けたのは今年赴任してきた若い副顧問。美術部の副顧問なのに、絵は苦手だと言っていた。 「もう帰れよ。さっきも言っただろう。十分後には鍵閉めに来るからな」  副顧問はそう言って、どこかに早歩きで出て行った。三十分前くらいにもこの先生が来て私たちに「そろそろ帰れよ」と声を掛けていた。  やっぱり沙彩と話していると簡単に時間を忘れることができる。窓から見える外はもう夕空の朱色も遠くに見えなくなっていた。  今日は序盤にあった集中力の進みだけで、後半は全然筆が進まなかった。明日またこの続きができるように、モチーフとイーゼル、椅子を動かされないように警告の張り紙を作る。私がそれをしている横で沙彩はまだイーゼルと向き合っていた。また副顧問に怒られるとわかっているのに、マイペースにのびのびとしている沙彩はとても可愛らしい。 「よし、できたよ。志乃これ見て」  嬉しそうに子供が母親に自分の宝物を見せるみたいに、沙彩は私にルーズリーフ一枚を手渡した。 「意外と可愛く描けたと思うの」  ルーズリーフに描かれていたのは一羽のうさぎ。そのうさぎは首元に赤色のリボンをつけている。そしてカラフルな草花の中を跳ねていた。 「本当だ、かわいい。けど何でうさぎ」 「うさぎは縁起がいいんだよ。なんだっけ。うさぎはぴょんぴょん跳ぶから前向きな、前進とか困難を乗り越える、っていう意味があるの」  あとこのリボンね、と沙彩が楽しそうに付け加える。 「志乃のリュックにリボンのデザインのストラップがあるでしょう? それがすごく印象的だったから、志乃の専属うさぎってことなの」 沙彩の独特な言葉のセンスに思わず笑みがこぼれる。すごく嬉しかった。  これから『専属うさぎ』と呼ばれた紙の中のそれは私の中でとても愛おしい存在なるだろう。 「このうさぎちゃんに名前つけようよ」  私が胸の中の温かい喜びに静かに舞い上がっていることを沙彩は知らない。 「沙彩がつけてよ。作者なんだし」  沙彩が次々と提案する独特な名前たちに、ふたりで笑い合う。うさぎに名前なんてなくても、この愛らしい可愛い生き物を見るたびに、私の心の中をじんわりと温かく柔らかいものが満たしてくれるに違いない。  しばらくして、副顧問がため息を吐きながら私たちに三度目の注意をしに来てしまった。それでも私たちがのんきに無邪気な様子でいるもんだから、先生がさらに不機嫌な表情になってしまった。  私と沙彩が学校を出て、駅へと向かう道は夕焼けの色も消え失せ、街灯の明かりと家々から漏れる光だけが残っていた。  私は沙彩からもらった『専属うさぎ』を毎日目にする日記帳の表紙裏に貼ることにした。
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