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七月二日(月)
本当にびっくりした。かっこよくて他の子たちが彼の噂をしていたのを聞いたことがある気がする。明日はもうちょっと作業を進めないと。終わらない気がする。
梅雨はまだ明ける気がなさそうな、七月の始め。
美術室にはクーラーが設置されていないので、扇風機と下敷きで仰ぐ風だけが頼りだ。風で紙がなびくのも、汗ばんだ手と鉛筆が少し気持ち悪いのも今だけなのかもしれない。
「あれ、今日は菊池さんいないんだね」
沙彩がアルバイトの都合で部活に参加しなかった今日、私は同じ美術部の二年、優斗くんに話しかけられた。
彼は美術部に所属する男子全六名のうちの貴重な一人だ。女子はその五倍の三十人。背がすごく高い、というわけではないがすらっしていて運動の得意そうな体に小さい顔が乗っていて、なんというかバランスが非常に絶妙だと思う。なんでサッカー部やテニス部などを選ばなかったのか、ときどきそう思う時がある。
「今日はアルバイトだから。明日はいると思うよ」
優斗くんはいないとは想定していなかったのか、小さく「どうしようかな」と悩んでいる様子だった。彼はデザインナイフを右手に握っている
「じゃあ、これ菊池さんに渡しておいてくれないかな。この前借りたんだけど、明日僕が部活に行けなくて。頼んでもいいかな」
彼が数秒ほど悩んだ末に、私の前に差し出したデザインナイフには『菊池沙彩』とネームシールが貼られている。
私はそれを受け取り、イーゼルの受台に置いた。
「うん、大丈夫だよ」
いつの間に彼女が優斗くんにこれを貸していたのだろう。彼から受け取ったそれをじっと見つめてみるが、わからなかった。
沙彩がいない部室はひとつの体温が足りないぶん、寂しい。筆が進まなくてもあの楽しさは何にも代えがたい。
今日は十七時前には切り上げ土砂降りの中、私は靴を濡らしながら早歩きで帰った。隣の体温は見当たらない。早く明日になってその体温と並びたいと思った帰り道だった。
次の日、優斗くんのことを部活に来た沙彩に伝えたら、彼女は驚くと同時にとても残念がっていた。
「そういうことなら、アルバイト入れるんじゃなかった」
こんなにネガティブな彼女は珍しいと思った。普段の彼女は前向きの権化のようだ。どんな状況でも「そこからなぜそんな前向きの光を導き出せるの?」と思う発言をするので、いつも感心してしまう。
私が優斗くんから預かったデザインナイフを渡すと、沙彩は小さくため息を吐きながらそれを受け取った。そのため息に私も落ち込みそうになる。
「神様は意地悪だよねえ。ああ」
「優斗くん、今日部活に行けないからって頼まれたの」
「そうなんだあ。そういうところは優しくて、好きなんだけど。あっ、私が受け取ったことを優斗くんに報告すればいいんだ。そうだよね、そうだよね」
沙彩は自分を納得させるように、ぶつぶつと言葉を発しながら、部活の準備をし始めている。
二人で会話をしているはずが、お互いに独り言を言っているみたいだ。
「恋、だね」
「好き」という言葉だけを切り取り、思いついてぽろっと発した言葉。それを私が言い切る前に沙彩は勢いよく私の方を振り返った。頬をピンク色に染めて口をパクパク、声にならない言葉が出そうになりながら、動揺を隠しきれていない。しかも、振り返ったときの反動のせいで、少し癖のあるふわふわとした髪の毛が乱れて彼女の口の中に入りそうだ。
「あ、ごめん。変なこと言った」
「いや、志乃は変なことなんて言っていないよ。うん、はあ」
今日二回目の沙彩のため息。沙彩の幸せがどんどん逃げてしまっているような感じがする。
沙彩は椅子の座面にへなりと顔を俯かせる。床に接している靴下や脚、広がるスカートが汚れそうだ。
普段の明朗快活の彼女をこのように変化させてしまう『優斗くん』は何者。
「そうか、そうか」
「いや、まだ、ねえ。本気っていうか」
「取り乱しすぎじゃない」
顔を腕の中から覗かせてちらりとこちらを見る沙彩。その目は少し充血している。
「話、聞いてくれる?」
断るはずがない。断れるはずがない。
私は仕方ないなあ、というような態度を取りながら沙彩を椅子に座らせるために、彼女に手を差し出した。いつかは優斗くんが沙彩に手を差し伸べるべき人になるであろうと思いながら。彼女は私の手を取り、私は彼女を優しく引き上げる。
「志乃は私のうさぎちゃんだね」
きちんと椅子に座り、乱れた髪を手で撫で直す彼女。先ほどまでのネガティブな表情はもういつもの優しい表情へと変わっていた。
「うさぎ、いつの話なの」
「いつの話ってそんなに経ってないよ?」
私にとっても彼女はうさぎだ。愛らしくて大事にしたくて、私が前を向く理由になる人。
高校一年生、再び美術部に入った私は部活の時間、放課後の大半を沙彩と一緒に過ごすことになった。「高校では卒業までひっそりといるんだろうな」と思っていた考えは一か月ちょっとで崩れ落ちた。
沙彩は周りの人からとても好かれる。彼女の周りに自然と人が集まってくる。不思議な何かで引き寄せられる。彼女はそれを持っている。
「志乃はどれにするー? 先輩がお菓子くれるってー」
そして、私をみんなの輪の中に入れる能力も持っている。部活をしている時はあちこちの机から彼女を呼ぶ声が聞こえる。廊下を一緒に歩いていれば、すれ違う同級生に頻繁に話しかけられる。私とは真逆の人なのだ。
そんな交友関係に苦労しなさそうな彼女が、恋愛のことで困ったような顔をしていると、私は勝手に親近感を抱いていた。彼女なら簡単に仲良くなれそうなのに、恋愛だとそうはいかないらしい。
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