うさぎ日記

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一〇月八日(火) 沙彩と土曜日に映画に行くことになった。沙彩から誘ってくれた。嬉しい。 「この映画一緒に観に行かない?志乃、たしかこのシリーズ好きって言っていたよね」 「そうだけど、よく覚えてたね」 「当たり前じゃん!」  自信満々にどや顔をする沙彩。夕陽が彼女を照らして、瞳が明るい赤茶色に光っている。学校から学校の最寄り駅まで歩いて、そこからは沙彩と別の方向へと私は向かわなければいけない。私に保証された、彼女と二人で居られるこの時間。陽が沈むのも気にならないくらい、この時間が続けばいいのにと強く思うことが増えてきている。  「映画は『優斗くん』とは行かないの」と、それを口にしない私は自分自身を意地汚いように感じる。  歩きながら一生懸命スマートフォンで映画の予約を取ろうとしている沙彩。危なっかしいのでそれを持っていない左手首を掴む。幼い子供を持つ母親になったような気分だ。 「席は、真ん中のあたりがいいよね」 「うん、そうだね」  沙彩と映画を見ることは初めてじゃない。沙彩への気持ちをなんとなく自覚してから、彼女はこんなにも愛おしい存在だったのだと気づいた。だから、こんなにも嬉しく感じるのだと思った。 「予約完了!」  明るい声とともに、無邪気な笑顔と右手で作ったピースを私に惜しみなく見せてくれた。  無意識に口角が上がる。少し鼓動が早くなる。彼女と過ごす時間がまた一日保証される。  駅で彼女に手を振り別れても私の胸の高鳴りは止まなかった。映画を見られることよりも彼女といられることが本当に嬉しかった。  金曜日まではいつも通り、沙彩がアルバイトでいない時以外は『優斗くん』の話を沙彩から聞いて、私はそれに頷く。以前の私だったら顔を聞いているように見せかけて頭の中ではよそ見をしていたけれど、土曜日のことが免罪符になっているみたいで上機嫌で話を聞くことができたように思える。『優斗くん』に夢中の彼女には気づかないような微差だと思うけれど。  彼女にとって私の視界の彩度を上げることは容易いことだ。  そして土曜日、今日の私はとても上機嫌だ。無意識に鼻歌を鳴らしていてもおかしくない。  予定は午前中にアルバイトがある沙彩を十四時にアルバイト先まで迎えに行き、そこから映画館へという流れ。それなのに朝から楽しみが止まらなくて、朝起きた時からそわそわしてしまっている自分に呆れてしまった。それでもその落ち着きのない時間もすごく楽しかった。  いつもは無造作に跳ねている部分だけ水に濡らして押さえつけていた髪も、使い慣れないアイロンなんか使ってセットしてみた。服は以前に沙彩が「すごく似合っている」と言ってくれた物を着ている。  『優斗くん』を目の前にした沙彩の恍惚とした表情に私は辟易としていたくせに、私はこんなにも沙彩からなんらかの形で認められたいと強く願ってしまっている。  らしくない。沙彩のアルバイト先に向かう道中、お店のガラスに反射する自分自身の姿を確認しては彼女と合流するであろう、数十分後を想像して足取りを軽くしている。  空は雲をまばらに残して青く染まっている。  沙彩のアルバイト先に着いた時には、予定の時間まで少し早かった。店内でてきとうに見回っていたらいいかと思い、私は店内に入った。レジからは彼女ではない店員の声が聞こえるから、きっと品出しでもしているのだろう。  本を見ている最中、沙彩の声が耳に小さく入ってきた。声の居場所をきょろきょろと探していると彼女の背中が見える。驚かすつもりはなかったが、少しくらいは話しかけていいかな、と思い彼女のいる棚の通路まで入りかかった。  『優斗くん』だった。彼女が向き合って話していたのは、紛れもないあの人だった。  私はその人が見えた瞬間に踵を返し、店内から出た。走ってはいなかったはずなのに、なぜか息が切れていた。無意識に呼吸を止めていたのかもしれない。たまたまあの本屋さんに来ていたのか。優斗くんはここから家が近いのか。沙彩がここで働いていると知ってきたのか。沙彩から『優斗くん』についていろいろ聞いていたはずなのに、私は何も知らない。沙彩が彼を好きだという本当の理由を。 「きっついな」  私が実際に声に出したのか、感情がぐちゃぐちゃに煮込まれて脳内で盛大に響いただけなのか、どちらなのかわからなかった。沙彩と彼を近づける手助けをしたのは私で、それをすると決めたのも私で、私は私はどうするつもりなのか。  はっと現実に気づかされたのは沙彩の声だった。いつの間にか沙彩は退勤時刻を迎え、そして私のところまで来ていたのだ。  『優斗くん』は帰ったのだろうか。もしかして、『優斗くん』は沙彩を何かに誘う口実を持ってここに来たのではないか。それなのに私と約束をしたがゆえに『優斗くん』と過ごす時間が一日減ってしまったのではないか。  私があれこれと頭の中で巡らせている間にも沙彩は私の手を引っ張り、連れ出す。沙彩は映画のことが楽しみで仕方がないというような笑顔を私に向ける。その笑顔が好きだったのに、沙彩の背後に彼の影を感じてしまう。  私はいつの間にか家に帰っていた。お互いの家路へ向かったであろう時間に沙彩からメッセージが届いていた。 「映画楽しかったね! 次のが公開されたらまた一緒に観に行こうね!」  このメッセージで私はいつも通りに装えていたということがわかった。映画の内容は覚えていなかった。  私は思い出したように日記を開き裏表紙にいる沙彩からもらった「専属うさぎ」を眺めた。相変わらず彩り溢れる世界でのんきに跳んでいる。 「どうしたらいい。君は私の専属なんでしょ。どうにかできないの」  無邪気に飛び回るうさぎに私の言葉は届かない。  口に出していないのだから届かない。しかし、口に出して伝えたところで何が得られるのか。彼女の笑う顔が見たい。私は彼女のうさぎだから。私が口に出すと、きっと彼女のうさぎ失格だ。 「私を前向きにさせてよ」  デフォルメされたうさぎを指でなぞりながら小さく願う。これくらい願ったって誰の迷惑にもならないでしょ。  今日は日記に何も書かなかった。代わりに沙彩と二人で観た映画のチケットの半券を挟んでおいた。  沙彩のメールには 「うん。行こうね」  そう返信をした。
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