序章

8/19
前へ
/677ページ
次へ
 背後で声がして、フィルトは身体の動きを止めた。左の拳が砂袋に半分埋まり、空中で固まる。少しの間、フィルトの荒い呼吸音が、雨音と合わさって静寂を破っていた。 「し、師匠……」  フィルトはそう言って、砂袋から拳を引き抜いた。ゆらゆらと揺れるそれを見ながら、顎に滴った水滴を拭う。振り返らなくとも、そこにいるのが誰だか分かる。聞き慣れた声だった。  振り返ると、声の主は腕を後ろ手に組み、フィルトを見上げていた。眼光の鋭い老婆だった。背丈はフィルトの鳩尾あたりまでしかなかったが、見た目の年齢の割に背筋が伸び、直立しているだけだというのに、おおよそ組み入る隙はなさそうな雰囲気を漂わせている。白髪の髪を髷にして結い上げてある。 「貴様らしくもない。どうしたというのだ」  老婆は、刺すような視線でフィルトを睨め上げた。フィルトの身体が硬直する。だらりと腰の横に垂れ下がった拳から、水滴がぼたぼたと地面に落ちた。
/677ページ

最初のコメントを投稿しよう!

10人が本棚に入れています
本棚に追加