9人が本棚に入れています
本棚に追加
新盆の送り火
家族から愛されなかった日々を記憶の底から消し去りたかった。
全てこれからの喜びとするために。
陽子との愛だけの日々にするために。
でも出来るはずがなかった。
そして思った。
翔に言われた厄病神として、これからも生きていかなければならない自分の運命を。
鬼でもとり憑かれたかのように、翼は受験勉強に没頭した。
陽子はそんな日々に不安を抱きながらも、それがやっと勉強出来る場を与えられた喜びからだと思うようにした。
そんな中、勝の新盆がやってくる。
胡瓜の馬と茄子の牛。
それぞれに意味がある。
家族の元へ戻って来る時は馬に乗って早く、又黄泉に戻る時は牛に乗ってゆっくりと。
家族の傍で少しでも長く居てほしいととな願いがそれには込められているのだ。
鬼灯と回り灯籠。
お盆用品で埋め尽くされていく仏間。
まだ悲しみの癒えない家族にも時は待ってはくれなかった。
容赦なく冠婚葬祭の課題をぶつけてくる。
回り灯籠を見つめていると病室の勝が蘇った。
ウエディングドレス姿に感嘆した同席者は、翼と陽子に想いを託して退室した。
それなのに、やっと得られた愛の時に二人は酔った。
勝の最期を看取れなかった悔しさがだ陽子の心を支配していた。
あの日、初めて男性に肌を許した陽子。
その日は自らが選んだ初夜になった。
今まで翼を拒んでいた訳ではないのに……
これからもチャンスは沢山あるはずなのに……何故待てなかったのか?
何故求めてしまったのか?
陽子は未だに苦しみ続けていた。
勝にゆかりの人達が次々と堀内家にやって来る。
明智寺で灯した提灯を家族四人で運ぶ。
堀内家の新盆の第一目は、静かに過ぎて行く。
迎え火を炊く。
勝が迷わず戻って来られるようにとの願いを込めて。
「親父寄り道しないで帰って来いよ」
忍が明智寺方面に向かって声を掛ける。
「あなたこんなに近いのにそれはおかしいわ」
純子が寄り添いながら忍の太ももを軽く叩く。
忍はその手を掴み堅く握り締めた。
「あなた痛いわ」
純子が甘い声を上げる。
でも忍は何も言わずに純子の手を離そうとしなかった。
「あなた!?」
純子が不思議がって忍を見つめる。
純子の視線の先で、忍は泣いていた。
忍はハッとした。
慌てて頬に流れる物を指で拭った。
「どうしたの?」
純子が忍を見つめる。
「いや……何でも……ただ寂しくて」
忍はチロチロ燃える火を見ていた。
「ごめん。お前が何時も側に居てくれるのに……。馬鹿だな俺は」
忍は純子の手をもう一度堅く握り締めた。
優しさ溢れる夫婦水入らずの時間。
翼と陽子はそんな仲むつまじい二人に当てられっぱはしだった。
二人は目配せをしながら、そっとその場を離れた。
「親父達のような夫婦になろうよ。母親の記憶は余りないけどね」
忍は純子にウインクを送った。
純子は忍に手を握り締られたまま頷いた。
「翼。熊谷には何で行くのかい? 良かったら俺の車使っていいよ」
忍が突然声を掛ける。
翼は一瞬ドキンとした。
邪魔してしまったのではないかと思って。
車は乗りたかった。
でも翼は首を振った。
肝心の免許証を持っていなかったのだ。
「ありがとうございます。お気持ちだけいただいておきます」
陽子は忍の優しが嬉しくてたまらなかったのだ。
二組の夫婦は何時までも勝の迎え火を愛しそうに見つめていた。
八月十六日。
何時か約束した星川の灯籠流しに、二人は出発した。
勝の送り火を兼ねて……。
陽子は高等学校卒業時に普通運転免許証は取得していた。
でも短大には学割の利く電車通学にしていた。
だから偶に忍のステーションワゴンを借りて、乗り回していた。
せっかく苦労して覚えた運転技術を忘れないようするためだった。
でも熊谷に行くための車は借りないことにした。
忍と純子夫婦は、この日町役場に休暇届けを出していた。
勿論勝の新盆のためだった。
そんな大事な日に出掛けようとしている二人。
車を貸してほしいとは言い出しにくかったのだった。
いくら忍が貸しても良いと言っていても。
「やはり、この方が良かったわね」
陽子が耳元で囁く。
翼はくすぐったそうに身をよじった。
(だって車を運転していたら、こんな風にイチャイチャ出来ないじゃない)
陽子は悪戯翼に悪戯したかったのだ。
でも思いとどまった。
今日が勝の送り火だと言うことで熊谷に向かわせてくれた姉夫婦にすまないと思ったからだった。
厳しい西日が車窓越しに照りつける。
床にはくっきりペアシャドー。
二人はシャッターカーテンを閉めないで影を楽しんでいた。
「暑くない?」
翼は車窓のひさしの下側に手を伸ばした。
でも、陽子は首を振った。
「熊谷って物凄く熱いんでしょう。少し馴れておきましょうよ」
陽子の言葉を聞いた翼は、その手を下げて陽子の指先に重ねた。
そして又影遊びを始めた。
二人が揺れる度に、床に映った影も揺れる。
熊谷までの距離が、物足りない位に二人は恋人同士に戻っていた。
熊谷駅に降り立った二人は階段を上り、突き当たりを右に折れた。
飲食店や土産物店の間を真っ直ぐ進み、左に行くと階段がある。
下りきった所の頭上には暑さ対策の霧噴射機。
「これが噂の『熱いぞ!熊谷』を冷やす霧シャワーね」
陽子は両手を広げて全身に浴びていた。
でも翼はそのまま動こうとはしなかった。
陽子は翼が気になってそっと視線を送った。
「陽子……、ちょっとこれ見て」
翼はさっき降りてきた階段を指差していた。
その言葉に誘われて、陽子は翼の元へ歩み寄った。
「わぁ、凄い!!」
其処には、階段のサンの部分に描かれた爽やかな絵が描かれていたのだ。
もう霧のシャワーどころではなくなった。
思わず『わぁ、凄い!!』と言った。
でも陽子は事前に知っていた。
でも、その時とは絵が違っていたのだ。
だから、遂言ってしまったのだった。
数年前訪れた時には階段に鯉が泳いでいた。
その後、大樹の横で涼む少女の絵に変わっていた。
でも今年は大きな西瓜だったのだ。
「あの霧のシャワーは肌から、これは目から涼んでもらおうとする熊谷の人の心遣いね」
「うん。きっとそうだ。でも凄い発想だね」
翼と陽子はしばらくそこから離れることが出来ないでいた。
午後四時。
陽射しはまだ暑い。
それでも二人は星川に向かって歩き始めた。
熊谷駅のバス停横を左に行く。
一つ目の門を右へ行き、ぶつかった通りを左に行く。
暫く行くと乙女の像のある交差点。
二人は星川脇の植え込みの中にある小道を歩いた。
陽子は乙女の像の広場が灯籠流しの会場だと思っていた。
だから熊谷駅方面から歩き出したのだった。
盆踊り会場のようなやぐらの向こうに、もう一つの乙女の像があった。
それが灯籠流し会場の戦火の乙女の像だった。
その手前の川面に架かる飛び石の橋渡し。
此処より星川の灯籠流しが始まる。
戦火の乙女の像の前で手を合わせた。
途中で見た立て看板には、道路封鎖の案内があった。
六時から九時までだった。
「つまり、灯籠流しは六時からだってことか?」
「良かった。意外と早く帰れるかもね」
その言葉を受けて、翼は腕のダイバーウォッチを見た。
「そろそろ新しい買わなくちゃね」
「そんな贅沢言えないよ」
受験勉強させてもらっているだけでも有難いのに、それ以上の負担はかけられないと翼は思っていたのだった。
灯籠流しまでにはまだ時間があったので星川の先まで行ってみることにした。
上熊谷駅とデパートを繋ぐ通りの途中の交差点から、地下を通っていた川が現れる。
それが星川だった。
星川はいきなり始まる。
そんな言葉がぴったりな小さな川だった。
上熊谷駅まで歩く。
小さな駅の周りは静かに、星川の灯籠流しの始まる時を待っていた。
「もうちょっとすると賑やかになるのかな?」
閑散とした風景を心配した翼が独り言を言う。
「これから大切な行事が始まるのにね」
そう。灯籠流しが始まる少し前にしては駅前に人が居なさすぎる。
「電車が着いたらきっと大勢降りて来るわよ」
二人は頷きながら、鎌倉町の星川通りに戻った。
戦火の乙女の像の前にはまだ人はいなかった。
それでも既にテーブルなどは置かれていた。
ガサゴソ音がして、いきなり道路に水が撒かれた。
小さな広場横の植え込み中に水道があるらしく、其処からホースが出ていた。
今度は乙女の像の横から撒く。
その人が去った後、雑巾を持った女性がテーブルを拭き始めた。
そしてその後、その雑巾をどこで洗うのかで相談していた。
そんな光景をぼんやり見ていた二人。
「あのー、植え込みの中に水道があるはずですが」
たまりかねて陽子が言う。
これから灯籠流しのある星川を汚したくない。
陽子も女性も考えは同じだった。
「地元の人でも知らないんだね」
「それを教えた私って偉い?」
陽子は翼に耳打ちをした。
やっと準備が始まろうとした時のことだった。
川の飛び石に下りていた人が流す真似をしていた。
次々と真似をしては話し合う。
どうやら川の水位が何時もより低くて、子供達が川に落ちるのではないかと言う相談らしかった。
みんながどいた後、二人で下りてみた。
大人なら何とかなりそうな距離。
でも子供にはきついかも知れない。
色々な場面を想定して安全な灯籠流しにする。
そのためには安全か否かを確認すること。
その上で対処することがいかに大事なのかを二人は目の当たりに見て感激していた。
その時。
星川に西日があたり準備中の人々を染め上げた。
灯籠流しは七時より始まるらしかった。
「どうしよう。六時からだと思って早く帰るってさっき電話しちゃった」
陽子がションボリする。
「しょうがないから、早く並んで一番に流させてもらおうか?」
翼が提案する。
陽子は頷いた。
数年前までは市の開催だった灯籠流し。
それを地元の方々が奮闘することにしたのだと言う。
そのために嬉しいこと。
代金を戴いていた灯籠を無料にしたようだ。
その灯籠がダンボールで運ばれて来た。
二人はそっと中身を見てみた。
苺のパックのような容器に蝋燭が付いている。
「想像していたのとはちょっと違うね」
陽子が精一杯小さな声で囁いた。
戦火の乙女の像の前に置かれた蝋燭台と線香立て。
二人は線香をあげてから合掌した。
地元の人々が次々とやってくる。
反対側の広場では、さっき見たあの灯籠が並べられ始めていた。
二人は早速先頭に並んで、開始の七時を待つことにした。
渡された灯籠の蝋燭に火を付ける。
ゆらゆらと炎が揺れる。
スロープのさきにある灯籠流し用の飛び石。
此処より星川の流れに灯籠を置く。
ゆらめく炎が勝に届くことを願いながら、二人は反対側の出口に向かいこの灯籠を追った。
二人はそのまま熊谷駅に向かった。
本当はずっと見ていたかった。
でもそれは我が儘だと陽子は思っていた。
勝の新盆の後片付けを手伝おうとしていたからだ。
確かに翼は堀内家にとっては家族同然だった。
自分はその嫁で、しかも当主の連れ合いの妹。
それでも間借りしている事実は変えられない。
中川では節子が翼を放さないだろう。
だからと言ってアパートを借りたら翼の大学受験に支障が出る。
陽子は陽子なりに悩んで、堀内家に身を寄せていたのだった。
熊谷駅前では幾重にも積み上げられた提灯に火が入って二人を待っていた。
でも眺めている余裕はなかった。
二人は直ぐに秩父鉄道の駅に向かった。
乗り込んだ電車で二人は名残惜しそうに車窓を見つめて祈りを捧げた。
上熊谷駅までのホンの数分間。
星川が流れている。
終戦前日から当日の深夜。
百名もの命を飲み込んだ星川は、多くの光に包まれて祈りの夜を迎えようとしていた。
祖父、勝の供養のために訪れた熊谷。
秩父駅に戻る電車の中で昼間のペアーシャドーを思い出した翼。
あの影の中に……
勝がいたらと思った。
でも翼は感じていた。
何時でも勝が傍で見守ってくれていることを。
最初のコメントを投稿しよう!