出逢い

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出逢い

 秩父市上町にある小さな神社。 その脇の道を自転車を転がして一人の青年が登って行く。 日高翼(ひだかつばさ)十八歳。 市内の高等学校に通っている三年生で、常にトップクラスの優等生だ。 彼はその道の突き当たりの場所に良く行く。 本人は秘密基地だと言っているが、本当は誰の土地だか解らない。 それでも其処へ行っては電車を眺めていた。 穏やかで誰にでも優しい彼。 でもその心は固く閉ざされていた。  ことある毎に翼の双子の兄である翔(しょう)の自慢話をしていた母親の薫。 翔は薫に溺愛されて育った。 一方翼は、何かにつけて目の敵にされた。 何故なのか翼も知らない。 思い当たることが全くないのに、何時も卑下されていた。 誉められたくて一生懸命に勉強した。 でも、兄より上の点数を取って反って叱られる。 それでも手抜きは出来なかったのだ。 だけど彼は母の喜ぶ姿を見たくてワザと間違える。 プライドとかどうでも良かった。 彼はそれほど、母を愛していた。 どんなに卑下され邪険に扱われようとしても、心底愛していたのだった。  薫はヘアスタイルが命のような人だった。 耳の形が気にいらないようで、前髪を長く伸ばして隠していた。 以前はインディアンスタイルのように、前髪で覆って後ろに束ねていた。 今は前下がりボブ。 翼と翔が高校に入学した頃だった。 アナウンサーのヘアースタイルを見てすぐに真似をしていた。  それ以前の薫は、翼が朝幾ら早く起きてもキチンとお化粧をしていた。 シミやソバカスを隠すためとか言って、コンシーラーを欠かさなかった。 でも髪型を変えた事もあって、ナチュラルメイクに変わっていた。 それでも相変わらず、シミ隠しだと称してのコンシーラーだけは欠かせなかった。  翼と翔の父親の孝はそんな薫を暖かく見守ってはいた。 しかし孝は可愛い女性に目がない人で、何時も薫を困らせていた。 孝は自らインストラクターをしているテニススクールと、隣接しているカフェを経営していた。 全ては趣味であるテニスと珈琲を極め、可愛らしい女性との出逢いの場とするために。  翼には解っていた。 自分に対する憎悪は、孝が構ってくれないジレンマ故だと言うことを。 だから翼は母を許せるのだ。 どんなに辛く当たられても、心の底から憎めないのだった。  西武秩父線、横瀬駅。 西武秩父駅方面からの上り電車が入ってくる。 ドアが開き、車中から木村陽子(きむらようこ)が手を振りながら降りてくる。 陽子は友人を西武秩父駅へ見送り、そのついでに一駅だけ付き合っていた。 それでもまだ話し足りないのか。 電車が走り去るまで、車窓越しに友人を見つめて手を振っていた。 陽子が横瀬駅に降りたのには訳があった。 駅から徒歩圏内に姉の堀内純子(ほりうちすみこ)が夫の忍(しのぶ)と暮らしていたからだった。 四・五段ある駅前の階段を下りると、丸太をくり抜いた花壇のある広場。 其処には色とりどりの花が咲いていた。 その先に国道につながる道がある。 左に行くと、純子と忍が勤めている町役場。 右に行くと線路。 陽子は迷わず右に行く。 今日は休日。 純子は確実に家に居るはずだった。  線路沿いを暫く歩いて行くと、秩父札所九番明智寺と八番西善寺への案内板。 真っ直ぐいくと西善寺。 左に行くと明智寺。 その通りを左に曲がる。 陽子の姉・純子は、十歳年の離れた町役場の上司・忍と大恋愛の末に結ばれて、明智寺の傍に住んでいた。 陽子は曲がり角にある、切り丸太の沢山置いてある花まみれの空き地が大好きだった。 此処へ来ると何故だか何時もホッとする。 仲良しだった姉に会える。 たったそれだけのことなのに…… 初めて此処を訪れた時、目が点になった。 段違いで周りに並べられた丸太。 こんな利用法もあるのかと関心させられた。 太い丸太は切り抜かれ、花を植えるプランターにもなっている。 陽子は何時も横瀬の人のアイデアに関心しながらこの道を通っていたのだった。 それでも陽子の心は重かった。 慰めて貰おうとした草花が刈られてしまっていたからだった。 「――うーん、いけず」 そう呟いた後、又友人の帰って行った西武池袋方向に目をやる。 何時になく陽子は悄げていた。 この場所のせいだけないことと自覚はしていた。  丁字路を明智寺方面に曲がる。 静かな細い緩やかな坂道に足が向く。 電車の音がする。 振り向く陽子。 西武秩父駅へ向かう下りの電車がスピードを緩めて横瀬駅に入って行く。 その先に目を移すと、武甲山がドンと構えている。 (それにしても大分崩れたな) 陽子は秩父の象徴的な山を痛々しげに見ていた。  陽子はやっと歩き出した。 (お姉さん又びっくりするかな?) それが気掛かり。 陽子が何の連絡もしないで訪ねて行くと、何時も驚く純子。 『お母さんに何かあったの?』 と決まって聞く。 解っていながら又やってしまった陽子。 幾分俯き加減になる。 そんな陽子に道沿いの花が少し勇気をくれる。 (ま、遣ってしまったから仕方ない。なるようになるか……) ようやく幾分かは開き直った。 陽子が横瀬に足繁く通いつめるには理由があった。 それは仲の良い姉夫婦を観察することだった。 それはそれは羨ましくなるほどのラブラブカップルだったのだ。  夏の花と秋の花が混在している道端。 それらに気を取られながら歩いいて行くと、目の前に広がるセメント工場。 下りきった所に白いガードレールの橋がある。小さな川がその下をを流れている。 その橋を渡ると、下り坂が一転する。 暫く続く上り坂。 上りきった所には丁字路。 目の前の矢印看板には札所九番と武甲山。 そしてさっき降りた横瀬駅の名前。 陽子の姉の嫁ぎ先は、その少し手前にあった。 「あれっ何だろう?」 陽子は看板の上に気になる物を発見して近付いた。 「カワセミ? ……だよね? これ。やだ、何で今まで気づかなかったんだろ? 横瀬にいるの?」 陽子は暫くそれを見とれていたが、首を傾げながら姉の嫁ぎ先の堀内家に足を向けた。 陽子は懐かしそうに、ドアを開けた。  「お姉さんいる?」 陽子はキッチンにいるはずの純子に大声で言った。 「此処の家の者は今留守にしてますが」 応対に出たのは翼だった。 翼は、玄関にいる陽子が眩しくて思わず目を閉じた。 陽子の美しさに目を奪われた。 それもあった。 でも本当の理由は陽子の後ろにあった。 太陽の光で陽子が輝いていたのだ。 それは正に後光。 翼は陽子の圧倒的な存在感で動けなくなっていた。 「あっ、君は翔(しょう)君だったっけ?」 「いえ、翼です」 そっけなく言う翼。 それが精一杯だった。 翼は取り乱した自分の姿を玄関にある鏡で確認しながら、必死につくろうとしていた。  陽子は頭を下げながら謝った。 「結婚式の時、おば様翔君の自慢話ばかりしていたでしょう? 印象が」 「何時ものことですから」 翼は、努めて平然とした態度を取ってはいたが、内心ではドキドキが止まらなかった。 それは陽子にも伝わっていた。 (ヤバい……私ったら何てことを……) 陽子は翼の動揺は自分が名前を間違えたからだと思っていた。 (なんで間違えたのだろう? 何時もおじ様の所に遊びに来るのは翼君だって知っているはずなのに……) 陽子は恐縮しながら翼を見ていた。  陽子はハッとしていた。 翼の祖父の堀内勝(ほりうちまさる)から、噂は聞いていた。 母親に愛されていないこと。 自分達に気を使って、それを隠していること。 でもその翼が誰よりも母親である薫を愛していることなどを。 堀内家の人々はその事実を知らないことにした。 翼が負担に思い、この家に来なくなるのを恐れていたからだった。 翼の居場所が無くなったら…… それを何時も危惧していたからだった。 翼を翔と呼び違えた陽子。 これ以上の屈辱はないかも知らないが、陽子も口を塞ぐことにした。  翼もハッとしていた。 逆光で見えなかった陽子の本当の輪郭に気付いたからだった。 美しく整った顔。 憂いのある眼差し。 胸がドキッとなった。 鼓動が物凄く激しくなる。 翼は陽子の美しさに我を忘れていた。 (うわっー!? ヤバい! わぁー!? 一体何なんだよ!! ヤバいよ……こんな感覚初めてだ!) 翼は居たたまれなくなって顔を背けた。  翼は放課後何時も祖父の家に入り浸っていた。 部活は帰宅部。 つまり、何処にも所属していない。 そのためクラスメートにはがり勉だと思われていた。 翼はクラスの中では成績優秀な生徒だったのだ。 それにはこんな理由があった。 この堀内家が翼にとっての塾だったのだ。 翔は有名な私塾に通わせているのに、翼はそのまま放って置かれていたからだった。 見かねた勝が乗り出したのだ。 だから、放課後は此処へ来て勉強していたのだった。 そして土日は忍。 翼の学力と知識はこのようにして構築されていったのだった。 その上…… 大好きな祖父とのたわいもない会話が、荒んだ心を癒やしてくれていた。 でもその祖父は今、大病を患って入院していた。 それでも癖で寄ってしまっていたのだった。  でも今日は日曜日。 忍も純子も居ないなんてことは滅多にないことだったのだ。 その原因は翼にあった。 翼の顔を見た純子が、留守番を任せて買い物に出たからだった。 翼はそれほど堀内家に溶け込んでいたのだった。 家族同様の扱い。 まさにそれだった。 「お義兄さんね、何時も言ってるのよ。本当は翼君の方が頭が良いって。じゃ又来るってお姉さんに言っておいて」 陽子は手を振って帰っていく。 (あ……ヤバい!) 何がヤバいのか解らない。 でもこのまま帰られてはいけないと思った。 (せっかく訪ねて来てくれたのに。何とかしなくちゃ) 翼は陽子の後ろ姿を見ているうちに堪らなくなっていた。  胸の高まりは増す一方で、翼はなすすべもなくただ呆然としていた。 慌てふためいていた。 突然の感情にうろたえていた。 翼は陽子をまともに見ることさえ出来なくなっていたのだった。 その思いが何なのか…… 翼には知るすべもない。 ただ… …取り乱していることだけは承知していた。 (ダメだ!! やっぱりこのままじゃダメだ!!) 翼はようやく、取るべき態度を決めていた。 翼は慌てて陽子を追いかけた。 「叔母さんに叱られます。上がって待ってて下さい」 翼の口からつい出た言葉。 その一言がカチンときた陽子。 「翔君。じゃなかった、翼君! 私のお姉さんに対しておばさんはないんじゃないの!!」 陽子は思わず声を荒げた。  「えっ!?」 目を丸くした翼。 (ん!?) それでも上目遣いに考えた。 (あれー?) 翼は結局何で怒られたのか解らなかったのだ。 「お義兄さんと私のお姉さんは、十歳離れているの。そのことよ」 陽子の言葉でやっと叱られた意味を理解した翼。 「はい。分かりました。でも、何て呼んだら」 としか言えなかった。 翼は腕を組んだ。 でも答えは出ない。 「お義兄さんは翼君にとって?」 「叔父さんです。お母さんの弟なので」 やっとそれだけ言えた。 「あ、ごめん。そうだった。それじゃやっぱり叔母さんだわ」 陽子は急に笑い出した。 それを受けて翼も笑った。 「そうだよね。幾ら若くても叔父さんの連れ合いは叔母さんだよね」 陽子はそう言いながら微笑んだ。  とりあえず家の中に入った陽子は掘り炬燵に潜り込んだ。 「あれ布団替えた? 何か厚ぼったい」 堀内家は夏でもレースのカバーを掛けてそのまま堀こたつを使用していた。 「これでスイッチ入れれば冬みたいだね」 陽子はそう言いながら、炬燵の中をのぞき込んだ。 「でも不思議。スイッチ入ってなくても何か暖かい」 陽子は翼の用意した青い蜜柑を食べながら姉純子の帰りを待つことにした。 「初蜜柑よ。でももうあるとはね」 陽子は顔を少ししかめながら、まだ酸っぱい蜜柑を頬張った。 「うわー、酸っぱい。でも美味しい。ねえ、翼君。初物を食べる時、ドッチを向けば良かったんだっけ?」 「さあー」 「じゃあ、とりあえずお母さんの居る方向かな」 そう言いながら陽子は武甲山を見つめた。 「確か、中川駅の近くにあるって聞きましたが」 陽子は頷きながら翼の言葉を聞いていた。  「あ、そうだ。さっきそこでカワセミの道標見たんだけど、横瀬に居たっけ?」 陽子は不思議な気分になりながら翼に聞いていた。 妙に気持ちが落ち着くのだ。それが何だか解らない。陽子は首を傾げながら翼の返事を待っていた。 「あーあ、あれですか? あれはカワセミではなくヤマセミだと聞きましたが」 翼は腕を組んだ。 「実は僕もカワセミだと思っていました。行ったことないのですが、武甲山にいるらしいです」 照れ笑いをする翼を、陽子はじっと見つめた。 翼は恥ずかしそうに目を伏せた。  掘り炬燵で蜜柑を食べていると、陽子の姉・純子が帰って来た。 「あら陽子どうしたの!?」 純子は突然の妹の訪問に驚いて、陽子の元に駆け付けた。 「お母さんに何かあったの!?」 (ありゃーやっぱり) そう来ると思いつつ、何時も驚く陽子。 「ううん」 陽子は目を丸くしながらも首を振った。  (またか) 正直そう思う。 純子は陽子の顔を見ただけで母の節子を思い出すようで、何時も駆け寄っていた。 「あー良よかった。何かあったかと思うじゃない」 純子はやっと落ち着いて、掘り炬燵に入った。 何の連絡もしないで訪ねると何時も驚く純子。 そんな姿を見る度に悪いことをしたと反省する陽子。 それでもつい足が向く。 それには本当は理由があった。 純子と忍。 この仲の良い歳の差カップルを観察するためだったのだ。 陽子は恋知らずだった。 だから二人を参考にしようとしていたのたった。  「クラスメートが遊びに来てね、送るついでに一駅乗っただけよ。定期券もあるしね。そしたら翼君に、叔母さんに叱られるから上がってって」 「何だそんなこと。それじゃ連絡しようがないか」 二人が話していると、翼が純子にお茶を持ってきた。 「あ、ありがとう翼君。君も一緒にどう?」 「いえ、僕は帰りにお祖父ちゃんのとこに寄ってから戻りますので」 「あっそう。じゃまたね」 掘り炬燵の中から手を振る純子。 翼は一旦外へ出るが、陽子のことが気になりなかなか自転車置き場に行けずに佇んでいた。 「え、送らないの」 陽子は少し上げた腰をゆっくり戻した。 「いいの。あの子は家族だから」 「え、何故?」 陽子首を傾げる。 「ま、色々あってね」 「色々ねー」 陽子は純子の顔を不思議そうに見つめた。 「あ、そう言えばさっき面白いことがあってね」 陽子は翼とのやりとりを話し出した。 何故、こんな話をし始めたなか解らない。 でも陽子は夢中で、自分でも気付かない内に根掘りは堀聞いていたのだった。 「あの子は優しいの。でも……」 純子の言葉が止まる。 覗くと涙を拭っていた。 その途端、陽子の心に温かい物が溢れ出した。  翼はドキドキしていた。 (ああ……何て素敵な人なんだろう。こんな人が恋人だったら嬉しいな) 翼はなかなか自転車を発車出来ずにいた。 自分のことを陽子がどんな風に話すのかが気になった仕方なくなっていた。 でも何時までも其処にいる訳に行かなかった。 翼は心を陽子の傍に残したままでゆっくりとペダルを踏み出した。  翼の祖父にあたる勝は、秩父市内の総合病院に入院していた。 最上階の個室で、窓の向こうには裏山ダムが見えていた。 トイレも有り、横にはシャワーも付いていた。 翼は付き添いをした時、何時も此処で浴びさせてもらっていた。 この病院は完全看護だったが、危篤状態に陥った時などには付き添いも許可してくれていた。 でも翼はそれ以外でも偶にそうしていたのだった。 「おっ、翼か。元気だったか?」 翼が会いに行くといつもそう聞く。 「僕のことより、お祖父ちゃんのことだよ」 翼はそう言いながらも、勝の優しさに胸を熱くする。  勝は命に関わる病を患っていた。 余命幾ばくもないことも知っていた。 だから残される孫が不憫だったのだ。 だから辛そうな時には許可を貰ってくれたのだった。 勝は、翼が母親から愛されていないことを見抜いていた。 翼は勝にも何も言わなかった。 でも言えずに耐えていることも堀内家の家族は分かっていた。 勝の娘・薫には翼と翔という双子の男の子がいた。 二人は見当がつかないほどそっくりだった。 でも何故か薫は翔だけを溺愛していた。 何が気に障ったのか、翼自身分からない。 ただ物心ついた時から、愛された記憶は存在していなかった。  百点満点取っても喜んでくれなかった。 そんな時勝は知らない振りをして、頭をなぜながら誉めた。 翼に負担を掛けたくなかった。 勝にとって翼が可愛い孫なら、薫も娘だったのだ。 理由は解らないが、何かあると察してはいた。 「あれっお祖父ちゃん、叔父さんは?」 日曜なのに堀内家に忍が居なかった訳は、勝の付き添いのためだったのだ。 「あ、忍なら買い物に行ってもらってる。すぐ戻ると思うよ。何か用か?」 「ううん……別に」 翼は言葉を濁した。 本当は陽子のことを聞きたかったのだ。  「僕、さっきまで留守番していたから……あのうー、叔母さんの妹と言う人に逢ったんだ」 翼は少ししどろもどろになっていた。 そんな翼の様子を見て、勝は少しニンマリしたようだった。 「陽子さんに逢ったのか?」 勝はわざとそう言った。 「どうだ。綺麗な人だったろう?」 「……」 翼は言葉を失った。 勝はそんな翼の態度を思いはかっていた。 本当は陽子のことを聞きたくて仕方ないはずなのに。 「どうした? 何かあったのか?」 敢えて聞いてみた勝。 本当は自分の心を受け取って欲しかったのだ。 でもどうしても笑ってしまう勝だった。 「あの子はいい子だよ。純子さんに負けず劣らず、素直で利発で」 勝が陽子の褒めるのを聞きながら、翼は陽子の整った輪郭を思い出していた。 又、ドキッとなった。 翼は勝から顔を背けた。 (お祖父ちゃん、僕の思いに気付いたのだろうか?) 翼は勝の顔もまともに見られなくなっていた。  「お義父さん、具合はどう?」 突然、純子が病室に入ってきた。 その後ろに陽子。 翼を見て、恥ずかしそうに俯いた。 ――ドキッーン!! 翼の心は千千と乱れた。 「おじ様久しぶりです」 頭を下げる陽子。 又、棒立ちになった。 動揺を止める術もなく陽子を見つめる翼。 「はい、これ忘れ物」 そう言いながら、陽子は翼に教科書を渡す。 「あっ!」 驚く翼。 「机の上を見てびっくりしたわよ。何時もこんなことなかったから」 純子の言葉に、ただ頭を掻く翼。 「ごめん。お祖父ちゃんまた来るね」 と言いながら病室を後にした。 教科書を忘れたのには訳があった。 陽子の美しさに見とれて、舞い上がってしまったのだった。 翼は陽子に一目惚れしてしまったのだ。  陽子も翼のことが気になっていた。 さっき純子は翼を優しい子だと言った。 それは勝からも聞いていた。 母を気遣い、波風を立てないように暮らしていると言う。 でもそれはかなりのストレスになるはずだと思っていたのだ。 だから実際に接してみて、その人柄に惹かれたのだ。 純子も翼を信頼しているからこそ留守を任せられるのだと思えた。 電車に揺られながら、翼のことばかり考えていた陽子。 気付いたら、終点まで乗っていた。 秩父鉄道三峰口駅。 陽子は何時も此処からバスに乗って帰っていた。 家は三峰神社行きのロープウェイ入口の近くで、土産物店を経営していた。 そのロープウェイの正式な廃止が決定し、建物も取り壊された。 それでも、表参道である登山道は健在だっけ。 だから暫くは営業してはいたのだが…… 平成十年四月二十三日。 山梨県と結ぶ、雁坂トンネルが開通した。 それによって、かって賑わっていた場所が寂れて行ったのだった。 だから遂に店を畳み、武州中川駅の近くに引っ越してきたのだった。  うっかりしていた。 陽子は翼のことばかり考えていた。 胸のトキメキを抑えられずに、四苦八苦していた。 改札口で定期を確認して、やっと間違えに気付いた陽子は慌てて駅に戻った。 でもその時には電車は出てしまった後だった。 三峰口は、終点であって始発駅でもあった。 下り電車が折り返し上り電車になって、陽子の視線から消えて行く。 「やっちまったな!」 陽子は照れをギャグでかました。 秩父鉄道は本数が少なく、まして武州中川駅には急行列車は止まらない。 次の発車時間まではまだかなりの時間があった。 仕方なくベンチに座った。 突然、思い出し笑いをする。 教科書を渡された時の翼の顔が余りにも面白かった。 陽子は気付かない内に翼を意識し始めていた。 三峰口駅のホームから見えるSLの転車場。 「いつか翼君と乗ってみたいな」 (えっ!) 独り言に自分で驚く。 (同情? 違うよね? まさか初恋!?) 陽子は自分で出した答えに自分で驚いていた。  それには訳があった。 陽子は今まで誰も好きになったことがなかったのだ。 自分の一生は、幼稚園の子供と遊んで終わる。 そう思っていた。 (そうよね。だから保育科を専攻したのよね。それがこんなにトキメイて) 陽子がそう思った途端、全ての謎が解けたように思えていた。 (そうか!! もしかしたら、これが恋ってやつか!) 自分で出した答えにまんざらでもないような顔をしながら空を見上げた。 夕暮れが迫って、鰯雲に紅を降り注ぐ。 陽子はその美しさに見取れていた。 陽子は、翼と出逢えたことを感謝せずにいられなくなった。 「ありがとう、姉さん。ありがとう、義兄さん」 空に向かって声を掛けた。 空では白鷺が夕焼けに染まりながら優雅に羽ばたいている。 「あの白鷺には、私は幸せそうに映っているのだろうか?」 陽子はずっと白鷺を目で追いながら、翼に今の自分の気持ちを素直に伝えたいと思っていた。 『あの子は優しいの。でも……』 ふと、さっきの純子の言葉が脳裏を過った。 陽子の心に温かい物が溢れ出したのはあの後だった。 純子は翼の多くを語らなかった。 それでも陽子はそれが翼への愛情だと思えた。 純子の言うところの家族愛なのだと感じていたのだった。  (でも不思議ねー。今までどうして逢えなかったのかしら?) 陽子は陽子なりに考えた。でも思い浮かばなかった。 (おかしいよ。何時もお姉さんに会いに行っていたのに……) 答えは出ない。 (始まりってそう言うもんなのかな?) 陽子はもう一度空を見上げる。 其処は何時の間にか一面の夕焼けに染まっていた。  翼は勝の病室にいた。 浦山ダムを見つめてはため息を吐く。 そしてやたらと動き回る。 さっきから、ずっとそわそわしている翼を勝は不思議そうに眺めていた。 「どうした翼。何時ものお前らしくないな」 遂に口に出る。 翼はその言葉にドキンとして、尚更言葉を失っていた。  「お義父さん具合どう?」 その時、純子が病室に入って来た。 翼は、その後ろに陽子の姿を確認して固まった。 勝は翼と陽子を交互に見て、首を傾げた。  「お義父さん聞いて、陽子と翼君付き合うことにしたんだって」 純子の言葉に陽子が真っ赤になった。 翼も赤い顔をして震えていた。 翼は緊張していたのだった。 「ほら、恥ずかしがっていないで」 純子は陽子と翼を勝の前に連れて行った。 「そうか、これか! 実は翼の奴、ずっとそわそわしてたんだ。そうか、良かったな翼。これで安心して死ねるよ」 勝は涙を流しながら、二人の交際宣言を聞いていた。 「いやだよ。そんなこと言っちゃ」 翼は泣きながら、ベッドにすがりついていた。 「僕、お祖父ちゃんからもっともっと話を聞きたいいんだ。」 「話か。そうだったな。翼は赤穂浪士の話が好きだったな」 勝はそう言いながら笑っていた。  勝が長くないことは主治医から聞いていた。 それでももっと長生きしてほしかった。 「陽子さん、翼を頼むよ。わしはこいつが不憫でならないんだ。薫め、こんな優しい孫の何処が気に入らないんだ」 勝のその言葉に翼はハッとした。 まさか勝に気付かれていようとは。 翼はシュンとしながら勝と陽子を見つめた。 勝は陽子の手を握り締めながら泣いていた。  翼が勝から聞いた赤穂浪士の話はこうだった。 吉良邸に討ち入った赤穂四十七士。 それとは別の討ち入り隊が中川に組織されていたと言うの話だった。 それは、勝の産まれ育った中川の伝説だった。 集落の地主の元に、赤穂班の江戸詰めの家臣の家で働いていた吉三郎が訪ねて来た。 奉公先で知り合った仲間と暮らす家を探すためだった。 赤穂班の取り潰しで行き場のない人々だと知りながら受け入れてくれた家長。 吉三郎を娘婿にとずっと考えていたからだった。 吉三郎はそれ程信頼のおける人物だったのだ。 山科会議で血判状を残した百二十余名の内、実際に討ち入りに参加したのは五十名にも満たなかった。 【山科〓大石内蔵助がお家取り潰しの後住まいとした地域】 大概の者は義理と打算から名前を連ねただけだった。 お家再興があったら、又雇って貰うためのパフォーマンスだったのだ。 でもその夢が潰えた頃には、多くの者が去って行ったのだった。 その中には、家老である大石内蔵助密命を受けた者もいた。 それが吉三郎の仕えた主人やその仲間だった。 もし仇討ちが失敗に終わった時に、もう一度立ち上がるために隠れて暮らすようにと。 それを忠実に守って活動していたのが、中川の赤穂浪士だったのだ。 赤穂四十七士の内の四十六が切腹した日。 中川の赤穂浪士達も全員が切腹したのだった。 勝は翼に男の美学を語り聞かせていたのだった。  以下、赤穂浪士概念。 元禄十四年三月十四日。 午前九時。 江戸城の松の廊下は、浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)が吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)に斬りかかり騒然となった。 「このあいだの遺恨覚えたるか!」 と叫びながら刃傷に及んだと聞きます。 その遺恨がいかなる物なのかは張本人のみ知ること。 一説には、吉良上野介義央に公邸からの勅使の件で悪戯されたとか。 でもこの勅使をもてなすことは既に経験済みだったはずなのだ。 その遺恨がどのようなものかは知りませんが、そのために国元が悲劇に見舞われたことだけは確かのようです。 その上五代将軍綱吉がが喧嘩両成敗にしなかったことが引き金になり、後に盛大な仇討ち事件に発展したのです。  十一日から十二日にかけて降った雪の残る道。 【舞台などでは演出上、討ち入りの日に雪が降ったとされています】 【南部坂雪の別れもなかったようです】  吉三郎は吉良邸へと急いでいた。 江戸が騒然となっていたからだった。 討ち入り後何処へ向かうのか知らない吉三郎は、浅野家の墓所である高輪の泉岳寺に向かっていた。 結局その近くの通りで、討ち入り後の寺坂吉右衛門と出会えたのだった。 寺坂吉右衛門は浅野内家の直接の家臣ではなく、吉田忠左衛門の家に仕えていた使用人だったのだ。 そのために、墓所へ詣でるのをはばかったのだった。 仇討ちの無事終了したことを知った吉三郎は、寺坂吉右衛門と喜びの涙に暮れた。 二人はそれで別れた。 吉三郎は独りきりになった吉右衛門に哀れを感じていた。 吉三郎は知らなかった。 吉右衛門は大石内蔵助の命を受け、討ち入りに参加した四十六人の家族を訪ねて歩くことにしていたのだ。 その上で、失踪した仲間をも探す旅に出ることも…… 寺坂吉右衛門に辛い試練が降りかかることも…… 実はその失踪した大野九郎兵衛こと知房も中川の浪士のように討ち入り失敗の折にの戦略を大石より承っていたのだった。 全てが同じ同士だったのだ。  中川に戻った吉三郎は、仲間に仇討ちである討ち入りが成功した旨の報告をした。 この時皆狂気乱舞したようだ。 無理はなかった。 中川の赤穂浪士一団は、仇討ちの失敗対策を考えあぐねていたのだ。 吉三郎はこの後中川から江戸へと往復し、討ち入りから五十日後の元禄十六年二月四日に切腹の決まったことを報告したのだった。 又皆狂気乱舞した。 切腹と言うのは、武士として認められと言うこだったのだ。 正式の敵討ちだと認められた訳ではない。 でも赤穂の浪人ではなく、武士として死ぬことができるのだ。 皆涙を流しながら語り合い、追々することを決めたのだった。 そしてその日。 中川にいた赤穂浪士の一団と共に切腹して果てたのだった。 脳裏に、寺坂吉右衛門の哀れな姿を思い浮かべる。 同じ使用人。 でも自分は仲間として認められた。 そのことを誇りに感じつつ、吉三郎は自刃に及んだのだった。
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