翼の秘密基地

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翼の秘密基地

 陽子と翼は大晦日の夜、堀内家で待ち合わせた。 秩父神社へ一番に初詣に行くためだった。 二人を見守ってくれる家族と、暖かい年の瀬を過ごしたかったからだった。 勝が退院していたのだ。 それが何よりの翼を喜ばせていた。 クリスマス後の二十六日にやっと退院することが出来た勝。 きっと最後の家族水入らずになる。 そう思いながら、翼と陽子を見つめていた。 その幸せそうな微笑み。 それは自分と翼がもたらせている。 陽子はそう思っていた。 だから勝に見せつけるために、出来る限り翼の傍にいた。 もっともっと勝に幸せを届けたかったのだ。  翼を思う勝の気持ちは解っていた。 自分との結婚させたい気持ちも理解していた。 でもまだ出逢って間もないのだ。 時期尚早だとも思う。 でも本心は…… その時不意に、夜祭りの日の中川の自分の部屋の出来事を思い出した。 本当は翼に抱かれたくてシャワーを浴びた陽子。 でも…… SLにかき消しされた。 あの時はそれでいいと思った。 それなのに…… まだ陽子の気持ちは揺れていた。  陽子が節子から預かった年越し蕎麦を茹でる。 その蕎麦は節子が農協の直売所の奥で、勝のために心を込めて手打ちした物だった。 節子も勝の退院を心から喜んでいたのだった。  初めてのデートで歩いた国道299。 暗闇の中を再び歩き出す二人。 あの日と違っているのは、お互いが掛け替えのない存在になったこと。 翼はもう、陽子なしでは生きて行けなかった。 陽子はその名前が示す通り、翼を照らす太陽になっていた。 堀内家の玄関先で、陽子を見た時の衝撃。 全身が太陽光に包まれた姿は、まさに天照大神の再来だった。 今翼は改めて、恋人になれた喜びに震えていた。 陽子は翼が言った言葉が気になっていた。 翼と言う名前は、翔が飛び立つために付けられた。 何時も翼を俯瞰し、高い場所から見下ろしている。 翼の言葉が陽子を捉えて離さなかった。  陽子は翔のことを詳しくは知らない。 母親の薫が溺愛している位しか。 そのために翼が迫害を受けていること位しか。 そう…… 陽子はまだ翔に会っていなかったのだ。 だから解るはずもなかったのだった。 でも陽子は考える。 翼は陽子にとって、可愛くて優しい愛すべき男性だった。 落ち度などあろうはずもなかったのだ。 だからこそ、何故愛されないのかが解らなかった。 だからこそ、愛しくてたまらないのかもしれない。  秩父夜祭りの仕掛け花火の会場・あの日愛を育んだ羊山公園脇の坂氷まで、二人は夜道を歩いてきた。 二日前に降った雪が少し残る道。 ライトが幻想的に照らし出す。 陽子は背中から手を回し、翼のコートのポケットの中に入れた。 翼はびっくりしたように陽子に目をやりながら、その手をポケットの中で強く握り締めた。 翼のもう片方の手は陽子の背中からコート手繰った。 陽子はその手を強く握り締めた。 冷たい手を温め合いながら、より深い恋人同士になって行く。 その手に、二人はお互いの将来をかけてみたいと思っていた。 仲むつまじそうに歩く恋人達に、秩父神社へ続く道はよりいっそう深い絆を与えていた。  突然花火が上がり歓声に包まれる。 そんな中、陽子はうずくまっていた。 これは、新年を祝うための秩父地方の恒例の行事だった。 知っていた。 知ってはいた。 でも余りにも無防備だったので、驚いてしまったようだった。 心臓が止まってしまうのではないかと思うほどの衝撃。 オーバーでも何でもない。 翼と一緒に居られる喜びに浸っていた陽子。 だから余計に震え上がったのだった。 今確実に陽子は、か弱い一人の女性になっていた。 翼はすぐに駆け寄った。 背中側に回り、陽子の肩から手を回す。そして優しく抱き締めた。 陽子の脆い部分に触れて、より一層愛しくなる。 抱き締めながら、優しい男になっていく自分。 翼は恋する喜びに震えていた。 ふと、クリスマスイブのシャワールームでの出来事を思い出す。 陽子の前で無様に震え上がった自分。 (陽子も……) そう陽子もか弱い一人の女性だったのだ。  神社にはこの時を待っていたかのように、善男善女が初詣に次々と繰り出してくる。 陽子はやっと立ち上がり、翼とはぐれないように寄り添いながら石段を登って行った。 「もしかしたら怖がり?」 翼の質問に頷く陽子。 陽子は翼の手をしっかり握った。 「翼とはぐれたら怖い。しっかり捕まえていて」 素直に甘える陽子。 (もっと大人にならなければいけないな) 階段の先にある大鳥居を潜りながら改めて誓う翼。 この時恋人達の未来は永遠に続いて行くと思われた。 悲劇が待っているとも知らず、二人幸せな時間を共用出来たことに酔っていた。 「ねえ知ってる。鳥居もこの沿道も真ん中を歩いちゃ駄目なんだって」 「ううん、知らない。でもどうして?」 「真ん中は神様の通る道だからだって」 「神様? でもみんな真ん中を歩いているよ」 翼に言われて後ろを振り向いてみた。 確かにみんな堂々と真ん中を歩いていた。 「これじゃ御利益は期待出来ないわねー」 陽子はこっそり言った。  「何お願いしたの? 大体見当はつくけど」 「えっ、何だよ。だったら言ってみろよ」 幸せ過ぎてどうしても緩んでしまう口元を、必至に隠しながら翼は言った。 陽子はそんな翼が愛おしくてならなかった。 「おじ様のことよね? 元気になってほしいから」 陽子は一緒に年越し蕎麦を食べた時の、勝の幸せそうな横顔を思い出していた。 「それと私のこと……」 (あっ!?) 言ってしまってから陽子は赤面した。 慌てて横を見ると、翼は含み笑いをしていた。 「ん、もう、イケず。翼の意地悪」 陽子は思わず翼にしがみついていた。  「よお翼。お前らが初詣に行くって言うから俺達も来たぞ」 いきなり背後から声が掛かった。 そこにはほろ酔い気分の翼の父孝がいた。 その後ろに母の薫がいた。 「翔は?」 翼が聞く。 その言葉に薫が一瞬躊躇ったように陽子は感じた。 思わず薫を見た陽子。 「寒いのは嫌だって」 薫は慌てて視線を翼へと向けながら言った。 「アイツらしいな」 翼は薫に笑みを振りまいていた。 陽子はそれを見て物凄く嬉しくなった。 ほんわかとした親子関係。 そんな雰囲気だったから。 (なあんだ、心配することなかったんだ) 陽子は素直にそう思った。  「翼の彼女を紹介してもらおうと思ってさ。この娘かい? ラブラブだって言うのは?」 でも……孝の一言で場が変わる。 孝は酒に酔っているらしく、足下をふらつかせなながら二人に近づいた。 孝はワザと陽子にもたれ掛かった。 陽子は嫌々孝を支えた。 「いい娘じゃないか。翼には勿体無い。そうだ俺の女になれ。いい思いさせてやるぞ」 孝は陽子が気に入ったらしく、舐め回すように見ていた。 「あなたいい加減にして、そんなことして恥ずかしくないの? 陽子さんが困っているわ」 薫は孝の手を取って陽子から離そうとした。 孝はそんな薫を鬱陶しげに睨み付けた。 薫は仕方なく、二人から離れた。 そして遠巻きに孝の乱行を見ていた薫は、陽子に冷た視線を浴びせた。 ――ゾォー! (えっ、何? 今のが本当の姿?) 純子の結婚式で翔のことばかり言っていた薫。 (やっぱり……翼は愛されていない! 私もきっと軽蔑されている!) その時陽子は確信した。  薫と孝に感じた険悪感。 陽子は翼を愛したために、それとも戦わなければならなくなったのだ。 たとえ父親が誰彼構わず声を掛ける部類の女好きだとしても…… 翼の家族を愛さなければ、何も進まない。 そう思っていたから。  「やめろよ親父!」 翼が声を荒げる。 陽子はドキッとした。 優しい翼の男らしい部分に陽子の真髄が反応したからだった。 でも一瞬。 人が入れ替わったのかとも思えた。 陽子に初めて見せた翼の男意義。 目の前で自分の恋人に言い寄る父親を放ってはおけなかったのだろう。 翼は孝の後ろに回り強引に陽子から引き離した。 孝が怯んだ隙に翼は陽子の手を取り、神社の奥へ走り出した。 いや、正確には逃げ出したのだった。  息を切らし、翼は片隅にへたり込んだ。 其処は奇しくも鎖に縛られた龍の斜め前にある、天照大神の御霊を祀っている祠のすぐ傍だった。 でも二人はそのことを知る由もなかった。 「ごめん陽子まさか陽子にまであんなことするなんて」 翼は体を震わせながら泣いていた。 「なんて人! 大嫌い! 翼には悪いけど、訴えたいよ」 陽子は感情をむき出して怒っていた。 「おじ様が言っていたわ。女なら誰でも手を出すって。娘が可愛いそうだって。八つ当たりにされる翼が可哀想だって」 「ごめん陽子。それでも僕の父親なんだ。生まれて来なければ良かったって何度思ったか!」 陽子は思わず背後から翼を抱き締めた。 「翼大好き! だから泣かないで」 陽子は翼をこれ以上傷つけたくないと思った。 何があっても守ってあげたいと思った。  年末に降った雪の残る御神水。 改めて手をすすぐ二人。 二人は太陽神と知らずに祠に手を合わせた。 二人の行く末を何時までも見守って下さいとの願いを込めて。 それは結婚する意志を固めた、二人の最初の参拝だった。 でも翼は陽子によって、重大な事実を知らされた。 自分が隠し続けていた日高家の内部事情を勝が知っていたと言うことを。 それは、交際宣言をした日に気付いていた。 でも、陽子にも話していたかと思うと…… 本当は陽子には知られなくなかったのだ。 『陽子さん、翼を頼むよ。わしはこいつが不憫でならないんだ。薫め、こんな優しい孫の何処が気に入らないんだ』 あの日確かに勝はそう言った。 翼自身がショックを受けたことも覚えている。 でも、翼にはそれが負担だった。 それを口実に、陽子に甘えてしまうであろう自分に気付いて…… でも翼は既にそうなっている真実を重く受け止めていた。  翼の生家は上町にあった。入り組んだ路地に小さな家が立ち並ぶ。 日高家は、その中でも大きな方だった。 古いアパートを改装した母家は大きく、駐車場も広かった。 昔からの資産家で、不動産を幾つも所持していた。 孝は何も仕事をしないで優雅に暮らせていけたのだ。 だから、趣味のテニスと珈琲を満喫するための事業を起こしたのだった。 翼と陽子が此処を訪れたのには理由があった。 交際宣言と、それを家族に認めてもらうためだった。 そう…… 幾ら愛された経験はなくても、翼にとっては家族だったのだ。  「結婚したいだと! まだ高校生だぞ」 孝は頭ごなしに翼を叱り付けた。 「もう嫌なんだよこんな家!」 翼は感情を爆発させた。 きっと初めての反抗なんだろうと陽子は思った。 翼の体全体から寂しさが溢れていた。 「生活はどうするんだ!? 第一卒業後の進路も決まっていないじゃないか!!」 孝はまだ息巻いていた。 「私が……横瀬の保育園から内定を戴きましたから」 初耳だった。 翼は驚いたように陽子を見つめた。 陽子はそっと頷いた。 (自分は何て愚かなんだろう。陽子がそこまで思っていてくれてたなんて……もしかしたら同情? お祖父ちゃんに頼まれたから?) 翼は、本当は感謝したいと思っていた。 それなのに、勘ぐる自分に恋人としての資格があるのか疑問に思えていた。 翼は居たたまれなくなって、陽子と一緒に家を出て近所にある神社に向かっていた。  お参りを終えた翼は、今度はその神社の脇道を上り始めた。 この上にある秘密基地に陽子を連れて行くだめだった。 其処は夜祭りデートの前に、翼が立ち寄った場所だった。 「何時もここで電車を見ていたんだ」 秩父線の線路。 その向こう側には西武秩父駅。 そして、日々姿を変えていく雄大な武甲山。 翼はここで旅立つことを夢に描きながら電車を見ていたんだろう。 陽子は翼と共に生きることを、翼を見守って来たこの秘密基地に誓っていた。 翼は陽子の肩を抱きながら、何があっても守り抜くことを改めて誓っていた。 その時初日の出の光が二人を包み込んだ。  木村家へ新年の挨拶に行こうと、御花畑駅に向かう。 二人の婚約を報告して祝福して欲かった。 認めてくれている家族に。 「きっとこの辺かな、秘密基地」 車窓の景色を陽子が指を指す。 翼が見ると、朝日を浴びて其処は輝いていた。  武州中川駅。 突然の翼の訪問に節子はとり乱していた。 「……ったく陽子ったら、知らせくれたら良いのに」 節子はそう言いながら、まだベットの中にいる貞夫(さだお)を起こした。 それでも、イヤな顔一つもしないで節子は翼をもてなした。 「今年はありきたりな物ばかりよ」 テーブルには御節料理。 「こんな物しかなくて」 節子はすまなそうにお雑煮を翼に勧めた。  そんな中で貞夫がマジマジと翼を見ていた。 「なあにお父さん? 翼の顔に何か付いてる?」 たまりかねて陽子が言う。 「いやー。見れば見る程良い男だ。陽子が惚れ込んだだけの事はある」 貞夫のその言葉で、陽子は真っ赤になった。 慌てて隣を見ると、翼も真っ赤になっていた。 「揃いも揃って。似た者夫婦だな」 貞夫の言葉で二人はもっと赤くなった。 「まだ早いよー」 陽子はやっとそれだけ言った。  「ねえ陽子。保育園は何処に決めたの? コッチで勤めないの?」 節子の何時もの攻撃が始まった。 節子はどうしても翼を婿にしたかったのだった。 「横瀬に空きがあるの。其処で勤めたいと思っているの。出来ればお姉さんの家から通えたらなんて……」 「えーっ!?」 翼は思わず声を上げた。 確か陽子は内定を戴いたと言ってた。 翼にとっても、それはただごとではなかった。 (親父……きっと怒るだろうな) 翼はドキドキしながら、陽子を見つめた。 「翼を彼処の家に置いておけないの」 でも…… 陽子はそう言いながら泣いていた。 (もしかしたら、口から出任せ? それでも嬉しい……) 翼も泣いていた。泣きながら笑っていた。 陽子の心遣いが嬉しくて堪らなかった。 少しでも懸念したことをすまないと思いながら。  「だったら此処に来たら? 私達は構わないよ」 そう言いながら節子は貞夫に目配せをした。 「あ、あー俺も構わない」 慌てて貞夫が言った。  翼と陽子は日高家で引っ越しの準備をしていた。 三学期から堀内家から学校へ行くことになったからだった。 木村家からだと、翼の学校が遠くなる。 陽子のこの意見に節子は渋々承知したのだった。 病院に無理を言ったと言う形で退院した勝。 本当は入院して三ヶ月すると点数が付かないと言う病院側の都合だった。 でも勝は喜んだ。 年末年始を家族と過ごせるからだった。 勝は二人に自分の部屋を使わせたくて、仏間にベットを移動させた。 でも陽子は嫌がった。 勝の又帰る家、部屋だったからだ。  日高家にある翼の部屋はガランとしていた。 勉強机と一体化したベッド意外何もなかったのだ。 生活感がまるでなく、暖かみも皆無だった。 でも此処は紛れもなく翼の城なのだ。 泣いてはいけないと思った。 それは家族に愛されていないことを肯定する。 陽子はそう感じ、必死に自分を抑えていた。  甲斐甲斐しく陽子が働く。 それをじっと見ている人がいた。 翼の様子が知りたい薫と、陽子のことが気掛かりな孝だった。 「陽子さん、お父さんは調子いいの?」 薫が勝の様子を尋ねた。 「はい。だいぶいいようです。やはり家が一番のようです」 陽子は荷造りする手を一旦止めた。 「何も出来なくてごめんなさいね。純子さんにもよろしくお願いします」 薫はそう言って立ち上がった。 陽子には泣いているようにも思えた。 (やはり親子なんだな) 陽子は本当は優しい薫の一面を垣間見たような気持ちになっていた。 親子…… 翼もだけど、勝ともれっきとした親子なのだ。 翔のことだけ考えているようであっても、薫は母であり娘だったのだ。  「いい娘だ。やっぱり翼には勿体無い」 孝は陽子をジロジロ見ていた。 「そこで何してるの? 全く油断も隙もない」 薫は呆れ果てて、孝を追い払った。 それでも孝は陽子を見ていたいらしく、コーヒーサイフォンを抱えて戻って来た。 「これが私の趣味でしてね、お二人でどうぞ」 そう言って、テーブルに並べ孝は部屋を出て行った。 その足で孝は庭に出て片隅にしばらく佇んでいたが、薫のいる部屋へと足を運んだ。 「コーヒーでも飲まないか?」 妙に優しい孝。 「二人に刺激されたの?」 薫は笑いながらコーヒーを受け取った。  一方茶の間では陽子が目を輝かせていた。 「これが評判の珈琲ね」 陽子はそう言いながら、ソーサーとカップを二つテーブルに並べた。 「一度だけ飲んだことがあるの。テニススクールに所属しているお友達と。本当に美味しいんだから」 陽子はワクワクしていた。 翼は陽子の楽しそうな様子を見て、そっとカップを口に運んだ。  翼が目を覚ます。 ふと我に戻って、周りを見る。 陽子がいなかった。 (あれっ、確かさっきまでいたよな?) 玄関に行ってみると靴はそのままあった。 (嘘!? 何処に行ったんだ!?) アチコチ探してみた。 でも何処にも陽子は居なかった。  居間に行ってみると薫が鼾をかいて眠っていた。 薫を揺すると一旦は起きた。 でもまた眠ってしまった。 「睡眠薬?」 翼は青ざめた。 (まさか!? まさか、親父が……) 『いい娘じゃないか。翼には勿体無い。そうだ俺の女になれ。いい思いさせてやるぞ』 孝が陽子に掛けた言葉を思い出した。 「ヤバい!!」 慌てて孝の寝室に飛んで行く。  ドアを叩く。 激しく叩く。 それでも何の返事も無い。 体当たりをしてもビクともしない。 翼は狂ったように、何度も何度も自分の体を打ち付けた。 それでも…… ドアは開かなかった。  翼は仕方なく廊下にあった消火器を振り上げた。 凄まじい音と共に、ドアが破壊されて行く。 其処から垣間見た真実に翼は目を疑った。 陽子は下着だけ着けた状態で、ベッドの上に寝かされていた。 部屋の中では何も出来ない孝がウロウロしていた。 「お前、コーヒー飲まなかったのか?」 孝が聞く。 「コーヒー!? やっぱり睡眠薬か? 僕が父さんのコーヒーを飲めないこと知らなかった? 苦過ぎるからイヤなんだ」 翼は陽子の前に立ちはだかった。 「コイツの目が俺を誘ったんだ」 孝は苦しい言い訳を繰り返していた。  翼が一口だけ飲んだコーヒー。 陽子が気を使って全て飲み干していた。 でも陽子の爆睡の理由はそれだけではなかった。 孝は持ち込んだコーヒーサイフォンの中にある隠し味を施したのだった。 睡眠薬だけではなかったのだ。 だから…… 陽子も薫も爆睡してしまったのだった。  翼にはみんなが絶品だと言うコーヒーの味が解らなかった。 翼にとっては、真っ黒の苦い飲み物だったのだ。 そう…… 子供の頃翼が飲まされたコーヒーはブラックだった。 それも苦味を最高のレベルにブレンドした孝のオリジナルだったのだ。  その時翔の存在を背後に感じた。 翔は居間で眠っていた薫を揺り起こし、二階へ上がって来たようだ。 「親父! いい加減にしろよ!」 ベッドで眠っている陽子を見て、翔は逃げるように部屋に入った。 でも翔はこのことが気掛かりだったのだろう。 再びドアを開け、みんなの様子を見ていた。 薫は目を擦りながら寝室へ入って来た。 陽子の下着姿を目にした瞬間、薫は目を剥いた。 「これで分かったわ。私の時も同じことをしたのね!」 薫は狂ったよに孝の胸を叩いた。 「えっ!」 翼は意外な薫の言葉に耳を疑った。 その言葉がどんな意味を持つのか、見当もつかない翼だった。 翼と陽子が結婚する前に、抑えきれない感情をぶつけようとした孝。 薫はきっとこのような修羅場を幾度も体験してきたのではないだろうか? 翼は今改めて、陽子を守り抜くことを誓っていた。  孝の仕組んだ睡眠薬入りコーヒーのこと。 薫は、孝がこんな行動に出たのは、陽子に隙があったと考えていた。 『コイツの目が俺を誘ったんだ』 そんな孝の言い訳を、事実だったかも知れないと思っていたのだった。 自分より眠りの深い陽子。 それこそ証拠だと思ったようだった。 陽子の隙…… それは翼を愛したため。 翼と孝の仲をこじらせたくなかったため。 だから…… コーヒーを飲み干してしまったのだ。  浮気に悩まされながらも愛し続ける薫。 それが疎ましいのか、また浮気を繰り返す孝。 勝だけには知られたくない秘密が日高家には充満していた。 とても、結婚式のことなど言い出せる雰囲気ではなかったのだ。 薫が陽子と翼の結婚を承知したのは、孝に陽子を諦めさせるためだった。 放っておけば、何をしでかすか解らない孝。 その防御策だったのだ。 陽子のせいではないと解っていながら、誰かを悪者に仕立てたい薫。 それ程までに孝を愛し続ける執念。 翼は薫に空恐ろしさを感じていた。
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