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「鳴沢先輩、今度の連休なにか予定あるんですか」  わたしは昼休みを利用して入った、会社近くの某飲食チェーンのカウンターに座りそう訊いた。  もうじきゴールデンウイークが迫っているのだ。  鳴沢は甘辛い濃厚なタレで味付けされた、豚バラ肉と白米を一気にかき込み応える。 「予定か? そんなものあるわけないだろ、ずっと部屋でごろごろして過ごすさ」  あっさりとした返事が返って来る。 〝いいぞその調子だ。なにごともなく過ごしてくれ、そうすりゃ俺の仕事も簡単で済む〟  内心わたしは手を叩いた。 「じゃあ一緒に鍋でも食べませんか、田舎から親が野菜を大量に送って来るんです。先輩の部屋まで持って行きますよ、肉も買って行きますんでアルコール類は先輩がお願いします」  連休中の監視のために、鍋パーティを提案する。  吞んだあげくに、一泊させてもらえば安易に身近で業務を果たせる。  彼のアパートの近くで、連休中監視をするなんて真っ平だ。  親が大量の仕送りをして来るというのは、本当の事である。  北陸にある実家は専業農家で、事ある毎になにやかにやと一人じゃ賄いきれないほどのものを送って来るのだ。 「おう、どうせ暇だからいいよ。だったら永山も呼ぼうぜ、どうせあいつも予定なしの組だろうからな」  永山というのは同じ部署の、二十七歳になる愛嬌のある青年である。  おしゃべり好きで、いつも社内のムードメーカーとなっている。 〝厄介だな、出来ればほかの人間は入れたくないがしょうがないか。どこの所属かは知らないが、まあ人の良さそうなやつだから取り立てて心配は要らんだろう〟  そう判断したわたしは、あっさりとそれを快諾した。 「いいですね、たまには仕事を忘れてプライベートで盛り上がりましょうよ」  しかし後から考えれば、この鍋パーティという安易な提案が世界にとって最悪の結果をもたらすことになるとは、その時は思っても見なかった。 「でもお前ほどのいい男が、そんな事してていいのか。彼女と旅行でもした方が愉しいだろうに」  そう訊いて来る鳴沢に対して、わたしは舌打ちしたい気持ちになった。 〝あんたのせいでそれが出来ないんじゃないか、こんな任務が一年間も続くこっちの身にもなってくれないかな〟  もちろん高身長高学歴で、それなりのイケメンでもあるわたしには〝岡崎香里〟と言う恋人がいた。  ニューヨークから帰ってきてすぐに、合コンで知り合い交際を始めた女性だ。  エリートの合コンには、それなりのいい女がすぐに集まる。  それを切っ掛けに、結婚にまで発展する者も一定数いるようだ。  しかしこの任務が終わるまでは、わたしには一切のプライベートの時間はないのである。  急に付き合いの悪くなったわたしへ、香里はねちねちと嫌味を言って来る。  しかしこの任務のことは極秘事項のため、一言も漏らすことが出来ない。  そんなわたしの心も知らずに、彼女は昨夜も電話で散々文句を言い募った。  それはそうだろう、大型連休だというのにデートもしない恋人など罵られて当然だ。 「ご心配なく、彼女なんていませんから。あはははは」  わたしは心にもない台詞を吐き、愛想笑いをしてみせる。 〝香里と別れることにでもなったら、全部あんたのせいだからな〟  わたしは心の中で鳴沢を罵倒した。  丼内の肉と米の間に黄色い姿を見せている、タクアンの残り一切れを口に入れた鳴沢が、急になにかを思い出したような顔になった。 「それにしても、あれ以来なに事も起きないな。かれこれ二年以上前だったが、あの時は本当にびっくりしたぜ。世界中が引っ繰り返らんばかりの大騒動だったよな、まあその後は平和なんだからいいか。でも人間てえのは調子のいい生き物だよな、のど元過ぎれば熱さ忘れるっていうけど、いまじゃ三流週刊誌にさえあの話題のことなんかどこにも載っちゃいない」 「いいんじゃないですか、あれは事故か幻のようなもんだったんですよ。今こうして平凡な毎日が送れるんだから、それでいいじゃありませんか」  わたしはなるべくその話題が広がらないように、適当に返事をする。 「そりゃそうだ。いまの気掛かりは、今年の夏のボーナスがどうなるかってことだ。もう二年も上がってないんだ、少しは考えてもらいたいもんだな。このままじゃ俺も我慢の限界だ」  鳴沢幌人はそう言って、残りの飯を口にほおばりお茶を一気に飲み干した。 「ここのところ会社の業績もいいし、海外とまで取引が広がったってえのに俺の給料は相変わらずだ。経営者一族だけ儲けやがって、目白辺りに数億円の豪邸を建てたって聞いたぞ。少しは社員を大切にしろってえんだ、そのうち俺がバチを与えてやる」  冗談とも本気とも取れないことを言う。 〝バチを与えるだって? とんでもない、そんなことは考えるだけでもあっちゃならないんだ〟  わたしは心臓が止まる思いであった。  なにがなんでも彼には、そんな考えさえ持たせてはならないのである。 〝たかだか五万や十万のはした金で、破滅したくはない〟  会社の二代目社長の一端の上流層を気取った、能天気な顔が目に浮かぶ。  無性に首を絞めてやりたくなった。 〝ボーナスか? こりゃ上に報告して考えてもらわなきゃならないな〟 「先輩、いくらくらいアップすりゃ満足ですか」 「そうさね十万と言いたい所だが、最低でも五万くらいは上がって欲しいな。ん? なんでお前がそんなこと気にする、経営者じゃあるまいに、偉そうになに言ってやがる」 「あははは」  愛想笑いを浮かべながら、わたしは今日すぐにでもボーナス五~十万円アップ要求の報告書を、極秘のメールアドレスへ送信することに決めた。 〝わずか五万か十万だ、どうにでもなるだろう。なんなら俺の収入から出したって構やしない金額だ〟  小市民的な鳴沢の欲求を少し見下しながら、わたしは安堵していた。  わたしの給料と云えば、いままで務めていた部署の月給が四十八万円。  出向先の今の会社の給料が二十五万円、出向特別手当が三十万円。  合計月収は税込みではあるが百万円に達している。  夏の賞与も特別手当てなどすべて合わせれば、二百五十万円は下らないだろう。  エリート中のエリートなのだから、その程度の収入は当然と言えば当然である。  それを考えると、鳴沢のことが少し不憫に思えて来る。 〝今度の鍋パーティ用に、せめて最高級のブランド牛でも買うことにしよう〟  そう独り言ちた。  安月給の鳴沢がわたしの収入を知ってしまったら、それこそどんな事態になるか分かったものじゃない。 「まだ時間があるな、コーヒーでも飲んでいくか。たまには驕るぞ」  鳴沢は席を立って、店内の時計を確認しながらわたしに訊いて来る。 「ええご馳走さまです、最近いいコーヒーを出す喫茶店を見つけたんです。案内しますよ」  チェーン店のカフェではなく、落ち着いた雰囲気の昔ながらの喫茶店の外観と気難しそうなマスターの顔を思い浮かべながら、わたしは笑顔で応えた。 「でも先輩驚かないで下さいよ、コーヒー一杯で千円以上しますから。でもカップまで凝っていて凄い雰囲気のある店なんです」 「なんだと? コーヒーが千円以上だって──。まあいいや、後学のために一度入ってみるか。二度と行くことはないだろうからな」  訳の分からないことをぶつぶつ言いながらも、わたしたちはメインストリートから少し外れた一軒の喫茶店〝椅子とパイプ〟という名前も外観も渋い店に入って行った。
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