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昼休憩を済ませ、鳴沢とわたしは午後の外回りに出た。
前々から予定していた千代田区にある、S商事と言う中堅規模の商社への営業である。
S商事が赤坂見附からこの神保町の近くにあるビルを、一棟借りして移転して来てから八年経過していた。
そろそろ事務機器を総入れ替えしたいという提案が、S商事の会長から来ていたのである。
この会長というのは当社の今は亡き初代社長のR大学の後輩で、その繋がりを今でも大切にしてなにかと声をかけてくれているのであった。
しかし息子の現社長はそれに不満を持ち、事務機器取扱いの大手企業であるO商会へと話しを持ち込んでいるらしい。
彼はK大学の出身で、O商会にはサークルで仲の良かった同期が居るらしい。
この営業には、当社の二代目社長の川幡清二も同行することになっており、午後三時にS商事の玄関前で待ち合わせすることになっている。
時間の十五分前に、社長は紺のメルセデスに乗って現れた。
今日の運転手は、営業一課の大山と言う二十代半ばの社員が務めていた。
社長はプライベートではマセラッティ・レヴァンテを乗り回している。
外車の輸入貿易会社に、やはり学生時代の悪友が居るらしい。
女房はBMWのX2M35ⅰといった具合だ。
広島にある老舗の菓匠の箱入り娘で、彼にとっては自慢の美人妻である。
過去にはカナダ人の白人娘と結婚寸前まで行ったらしいが、なんらかの事情(宗教的な理由と言う噂を聞いた)でご破算になったらしい。
けっして悪い人間ではないのだが、苦労を知らないゆえに従業員の心が分からないのであろう。
〝苦労は買ってでもしろと言うが、昔の人の言葉は的を得ているな〟
この二代目社長を見ていると、妙にそんな言葉が納得できる。
鳴沢が二年間もボーナスが上がってないのを、不満に思うのも当然だ。
「いやいや、待ったかい?」
砕けた口調で、車を降りた社長が笑いかける。
そういったフランクな仕草がスマートだと思っているらしく、苦労知らずの明るい顔で軽く右手を上げる。
「いいえ、わたしたちも今着いた所です」
鳴沢が作り笑いで応える。
〝中小企業のボンボン社長が、上流階級を気取ってやがる〟
本物のセレブという人種を知っているわたしは、それがおかしくてしょうがなかった。
しかしそんなことはおくびにも出さず、先輩と一緒に笑みを浮かべる。
なんのことはない、そう言うわたしも北陸の専業農家の倅である。
五分前に受付へ行き会長との約束で来社した旨を告げると、愛想のいい受付嬢は聞いていたらしく、ゲスト用の首かけ式入館証を手渡しエレベーターで最上階の八階まで上がるように案内してくれた。
こんな些細な所に、経営者の人柄が反映されるのが企業というものである。
きっと創業者である会長の教育がいいのであろう。
その遺産を、大体は二代目が食い潰すのだ。
受付嬢が電話で連絡していてくれたらしく、エレベーターを降りるとそこにはきっちりとしたスーツ姿の若い女性が待っていてくれた。
齢は二十代後半くらいの、清楚な雰囲気のかなりの美人だった。
彼女に先導され会長室に入ると、人の良さそうな七十歳過ぎの老紳士がにこやかに迎えてくれた。
「清二君、久しぶりだね。お父さまの告別式以来だから三年になるかな」
「お久しぶりでございます、その節は色々とお世話になりました。度々お声をお掛け頂き、会社の方もいつも助かっています。今回もお心遣いくださって、大変感謝しております」
卒なく社長が頭を下げる。
会長に促され、高級そうな応接セットに腰をおろす。
「早瀬くん、浩一に来るように伝えてくれ。それから例の取って置きのを頼むよ」
秘書なのであろうか、案内してくれた美人に会長が声をかける。
浩一というのは、息子である現社長の名前だ。
「かしこまりました」
そう言って会釈をすると、彼女は部屋を出て行った。
「わが社の鳴沢と立花です、今回の担当をさせて頂きます」
社長から紹介され、鳴沢先輩とわたしは揃って名刺を出し頭を下げる。
「担当の鳴沢と申します、精一杯ご対応させて頂きますのでよろしくお願い致します」
緊張した面持ちで、鳴沢が深々とお辞儀をする。
なにかと言えばぺこぺこと頭を下げる、外国人が揶揄する典型的な日本人の姿がそこにあった。
「立花です、鳴沢のサポートをさせて頂きます。なにかございましたらご遠慮なくお申し付けください」
わたしは名刺を渡しながら、軽く腰を折り相手に微笑みかける。
〝これが外国であれば、笑顔を見せ合いながら握手をする場面だ。これだから日本人は世界で嘲笑われる〟
内心辟易としながら、そんなことを考えた。
「佐伯亮造です、よろしくお願いしますね」
名刺を交換しながら、我々一社員にも丁寧に柔らかな言葉をかけてくれる。
鷹揚でもなくフランク過ぎもしない、その人物の人柄を前面に出した完璧な笑顔がそこにはあった。
ある程度の成功を収めているにも拘らず、常識的で腰の低い好人物のようだ。
こういう人間は外国人(特に白人)からは、友好的ではあるが謙遜(へりくだ)っていない、タフで油断のならない交渉相手として一目置かれる。
型通りの挨拶を済ませても、社長である浩一氏は姿を現さない。
それよりも先に、秘書である早瀬が銀の盆にカップを乗せて入ってくる方が早かった。
「失礼いたします」
てきぱきとした仕草で彼女は、各々の前にカップを置いて行く。
わたしはそのティーカップを見て驚いた。
われわれ三人には〝ヘレンドマスターペインター康熙〟、会長の前には同じ陶工の〝オ・サリバン〟が置かれたのだ。
同じ名前のシリーズでも色々なランクがある中、ここにあるのはどれもソーサーとの一組で五十万円近くはするものに間違いなかった。
添えて置かれたシュガーポットとクリーマー(早い話しが砂糖入れとミルク入れ)も同じハンガリーの名窯のもので揃えられている。
「どうぞ冷めない内に」
佐伯会長から促され、我々はカップに口をつけた。
〝う、美味い──〟
わたしはその珈琲の味に驚いた。
横に坐っている鳴沢の顔を思わず見てしまう。
「────」
この平凡な男もなにかを感じたらしく、奇妙な顔つきになっている。
そうなのだ、さっき食後に入った喫茶店の一杯千二百円の〝スペシャルブレンド珈琲〟と銘されたものの味と酷似していた。
わたしたちはそれに気づき、無言で頷き合った。
「いやあ、実にうまいコーヒーですね。誰が淹れてらっしゃるんですか」
うちの社長が砂糖を二杯、ミルクもたっぷりと入れておきながら、珈琲の味の批評をする。
「そうでしょう、この早瀬くんに特別なお客様の時だけにお願いして淹れてもらうんです。今は秘書のようなことをしてくれていますが、彼女はわたしの家内の親戚でして、父上は趣味が高じて喫茶店を開いていらっしゃるほどなんです。だから彼女もいつの間にか珈琲を淹れる腕が磨かれたのでしょうな」
特別な客と言われ、社長の顔がにんまりと緩んでいる。
「いやあ、これほどお綺麗な上にコーヒーもこんなに巧く淹れられるなんて、旦那さまはさぞかし幸せでしょうね」
「それが未だに独身なのです、誰か良い方がいらっしゃったらご紹介して下さい。もうそろそろ三十になってしまうものですから、お父上も心配しておられて」
今の時代女性だろうが三十歳で独身であってもなんの問題もないが、昔の人にはそうではないらしい。
「伯父さま、余計なことはおっしゃらないで頂けますか。いまは仕事中なんですから」
少し強めの口調で、彼女は佐伯会長を睨んだ。
それは険のある強さではなく、親しい者同士のじゃれ合いのような滑稽さがあった。
「おっと、これは失敬。またいらんことを言ってしまったようだ」
そういいながら、はははと愉しそうに笑う。
「社長遅いですね、もう一度催促いたしましょうか」
「うむ、頼む。すぐに来るように言ってくれ、彼らを待たせるわけにはいかんからな」
「はい、すぐにお伝え致します」
彼女は元の秘書の顔に戻り、一礼して辞して行った。
その後遅れて入ってきた社長も交えて会話をしたが、特に具体的な商談の話しにもならず世間話程度でその日の面談は終わった。
現社長の浩一氏の年齢は、ほぼ当社の社長と同年代の三十代半ば頃だと思われた。
会長の言葉によると、まだ独身のようである。
しかしその雰囲気と容貌は、当社の社長とは正反対のようだ。
初対面時から厳しい表情を崩さず、出てくる言葉の一つ一つが高圧的で人を見下しているかのような印象だった。
本当にここに居られる温和で重厚な父親の息子なのかと、つくづく驚かされた。
こんな人間よりは、うちの社長の方が何倍もましに感じられる。
その際の感触からいくと、社長は完全にO商会への発注一択に決めているようで、わが社に対しては終始冷淡な対応であった。
いや冷淡というよりも、嫌っているという風に思われる。
どうやら言葉の端はしから、K大出身の彼はW大卒のわが社の社長のことが気に入らないらしい。
なにかにかこつけて、W大のことを馬鹿にするような言葉を発する。
商売上の客であるために、社長も笑って誤魔化してはいるが、こめかみの辺りがぴくぴくと痙攣していた。
T大法学部卒のわたしからしてみれば、私大同士の争いなど鼻の先で笑えるようなものでしかなかった。
せめて国立のK大かH大でも出ていれば、多少は考えてやらない訳でもないが、私大では相手にさえならない。
しかし父親に似ずに、なんとも厭味な印象の男だった。
それから四日後、思いもよらない事態が起きてしまう。
それは鳴沢幌人の私生活を一変させかねないほどの、まさに重大事件であった。
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