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後から聞いた話だが、鳴沢は土日の休み中に家でやるはずの仕事の資料を会社に忘れてしまい、土曜の午前中にそれを取りに会社に顔を出したというのだ。
自宅と会社はドア・トゥ・ドアで三十分もあれば行ける距離だから、そう大変なわけでもないのだろう。
土曜だというのに休日出勤をしている社員もいるので、社内へはすぐに入れた。
誰もいない場合はセキュリティ会社へ連絡をし、警備会社の人間に鍵を開けに来てもらわねばならないのだ。
資料は机の上に置いてあり、すぐにそれを持ってきたカバンに入れ会社から出た。
駅へ帰ろうとした鳴沢の頭に、ふと四日前にわたしと入った喫茶店のことが浮かんだのだという。
多分そこにはS商事で逢った美人秘書の顔も、一緒に浮かんだのだろう。
もう二度と行くことはないだろうなどと言っておきながら、鳴沢はふらふらと何かに導かれるように店の外開き扉を引いた。
扉につけられている鐘の音が〝カラカラ〟と小さな音を立てた。
店内は空いており、四日前と同じ席に座ることが出来た。
夫婦で営んでいる店らしく、マスターはカウンター内で珈琲を淹れ、奥さんらしい整った顔の中年の女の人が水を持って注文を聞きに来る。
にこやかに注文を訊いて来るその顔に、彼はどこか見覚えがあるような気がした。
てきぱきと動くその姿も、なんとなく記憶にある。
「スペシャルブレンド珈琲をお願いします」
あの香りと味が忘れられず、店自慢の千二百円のコーヒーを注文した。
ここの珈琲を飲めばその味と共に、あの早瀬という女の人の事までもが思い出せそうな気になったらしい。
「スペシャルですねかしこまりました。豆から曳きますから少しお時間を戴きますがよろしいですか」
その喋り方にも覚えがある。
「はい、結構です」
「では少々お待ちください」
中年の女の人は笑みを浮かべて、軽く会釈をした。
この仕草もどこかで──。
鳴沢は自分が、デジャブを見ているのだと思ったらしい。
彼はその既視感を振り払うかのように頭を振ると、入り口脇のブックスタンドから持って来ていたスポーツ新聞に目を通しながら、ゆったりと珈琲が来るのを待った。
〝カラカラ〟
扉の開く音が響いた。
鳴沢は〝客が来たのか〟と思い、特に気にもせずに新聞から顔を上げることもなかった。
「おかあさん、遅くなってごめんね。奥で手を洗ったらすぐに手伝うから」
若い女性の声がした。
「お休みなのに手伝わせてごめんね久美子、でもあなたが来てくれると助かるわ」
母親が応える。
〝へえ、娘さんが手伝いに来たらしいな、いかにも家族経営って感じがするな。娘さん久美子っていうのか、俺の好みの名前だ〟
そう思いながらも〝まあ、俺には関係のないことだな〟と特に興味も持たず、鳴沢は新聞を読み続けた。
スポーツ新聞ではあるが、某軍事大国の隣国への侵攻のニュースが大きく紙面を割いていた。
〝二十一世紀にもなって、未だにこんなことを繰り返すとは。人間ってやつはなんて愚かな生き物なんだろう、いまに滅んでしまうぞ〟
鳴沢は悲惨な記事を読みながら、内心溜息を吐いた。
「お待たせいたしました、スペシャルをお持ち致しました」
思いもかけぬ若い声に戸惑いながら鳴沢は新聞から目を上げると、そこには奇跡のように綺麗な顔があった。
それはこの四日間、鳴沢の脳裏から消えることのなかったものだった。
「あっ、あなたは──」
「わあ、嘘みたい。たしか鳴沢さんでしたよね」
美しい顔と、華やいだ声が一度に鳴沢の心に飛び込んで来た。
「なぜあなたがここにいるんですか・・・」
びっくりした顔で訊いて来る鳴沢へ、彼女は微笑みながら応える。
「ここわたしの父のお店なんです。偶然ですね、まさかこんな所でお会いするなんて」
早瀬久美子との運命の再会であった。
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