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「それで、その後どうなったんですか。まさか挨拶しただけで終わりと言うんじゃないですよね」
わたしは鳴沢を揶揄うような口調で問い質した。
今は週明けの月曜日だ。
廊下の自販機で清涼飲料を買い、元は喫煙スペースであった場所に置いてある椅子に坐り、休憩がてら話しを聞く。
「あ、ああ。その後互いのことを少しばかり喋って、連絡先を交換して店を出た。彼女は店の手伝いだし、俺は自宅で仕事をしなきゃならなかったしな」
SNS情報の交換は出来たらしい。
「じゃあ、とりあえずは連絡先を聞いたんですね。先輩も中々やるじゃないですか、見直しましたよ。あんな美人が相手じゃ、なにも出来なかったんじゃないかと思ってた」
遠慮もなく、わたしは本音を言った。
どう贔屓目に見ても、気後れしてそんなことの出来るタイプじゃないと思っていたのだ。
「やるもなにも、彼女の方から連絡先交換を言って来たんだ。俺はなすがままに従っただけだよ。こっちからそんなこと言えるわけないだろ、あんな綺麗な人に」
やっぱりそんなことか、わたしは納得した。
「でも、向うから訊いて来るなんて脈があるんじゃないですか。勿論すぐに連絡取ったんでしょ」
「ば、馬鹿言え、そう簡単にできるか。変にがっついて嫌われでもしたら元も子もないじゃないか」
「じゃあ、なにもしてないんですか? 信じられない──」
本当に仕事抜きで、この平凡な男に説教をしてやりたくなった。
「そんなことをグズグズ考えてたら、一時間後に向うから連絡があった。自宅のパソコンの前でスマホを持つ手が震えたよ。早瀬久美子という名前と一緒に〝今日はお逢いできてよかったです、今度はゆっくりとお話しがしたいですね〟って送られて来たんだ」
「で、先輩はなんて返したんです」
「俺は〝こちらこそお逢いできて楽しかったです。会社でのスーツ姿もいいけど、今日のカジュアルな服装も素敵でした。ぜひまたお話ししたいです〟と返した。どうかな?」
彼にしては上出来の返信だ。
「いいんじゃないですか、好感が持てますよ」
「それにな、今朝も彼女から通知が来てた」
そう云って鳴沢はスマホの画面を見せて来る。
〝おはようございます、今日からまた新しい週が始まりますね。お仕事頑張ってください〟
なんのこともない文面だが、彼にとっては相当嬉しいらしく顔面中がデレデレになっている。
いままでワンピースのイラストだったスマホの待ち受け画面も、喫茶店内で撮った早瀬久美子の顔に変わっていた。
少しはにかんだような表情が、わたしから見ても羨ましいくらいに美しい。
〝おい、俺はスマホで写真を撮ったなんて聞いてないぞ〟
そう心で突っ込んでみた。
もしかして、彼女は本当にこの平凡な男に好意を持っているのかもしれない。
世の諺に〝蓼食う虫も好き好き〟〝あばたもえくぼ〟と言うのがあるように、人それぞれ好みはあると云うことである。
わたしは内心、生まれて以来三十一年目にして初めて訪れた、彼の春を盛大に祝ってやりたくなった。
しかし、任務を考えると大きな障害が発生したことにもなる。
不本意ではあるが、最重要事項として報告を入れなければならない。
恋愛は感情の揺れが大きすぎる、喜んだりへこんだりその時々で大きく心を変化させることになるのだ。
そうなると、日々平凡な生活という前提が、崩れてしまう可能性が高くなる。
どうしたものかな、喜んでばかりもいられないなあ。
それは彼のせいではないにしろ、やはり彼は世界一危険な男であり続けているのだから。
なにか起きてしまえば、それは彼だけの問題では済まない。
(はずである、一体どうなってしまうのかは誰も分からないままなのだが)
悪いことが起きなきゃいいが──。
わたしは複雑な思いで、無条件に幸せそうな彼の顔を眺めた。
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