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「わたしの国ロシアでは夏は短い、だからサマーバケーションは非常に大事ね。冬になれば身体が凍らないようにウォッカを大量に飲むしかない。日本のような気候の国はとても羨ましい」  熊のような図体といかにもロシア人といった容貌を持つシュレンスキーが、相対的に小さく見える紙コップのコーヒーを啜りながら話しに割って入る。  体長は二メートル近くあるだろう。 「ヘイ、マルチネス。君も休憩しないか、飲み物を奢るからここに掛けたまえ」  陽気なアメリカ人のゲーリーが、同じ合衆国出身の掃除夫のマルチネスに声をかける。 「ソーリー、ノーサンキュウ」  朴訥としたアメリカ南部の黒人農夫のような容姿の彼は、ゲーリーの言葉に顔を振り黙々とモップをかけている。  無口な性格であるらしく、彼が誰かと話している姿をわたしは見たことがない。  日本語も苦手のようで、常に片言である。 〝この男、ほかのやつらとは毛色が違うな。生粋の軍人なのか?〟  多分わたしの勘は当たっているだろう、この男は戦闘要員だ。  身体つきだけならば、シュレンスキーにも負けてはいない。 〝まったくここはどうなってるんだよ、掃除夫まで油断できない〟  わたしは床を磨き続ける巨体を横目で見ながら、内心うんざりとしていた。 「彼はいつも黙って働いているの、好感が持てるわ。男は無口な方がいい、ここにいるやつらはみなお喋りし過ぎなのよ。心の中じゃなにを考えてるか知れたものじゃない、ねえ鳴沢くん」  黙ってみんなの会話を聞いている鳴沢へ、サラが話しかけた。  発音やアクセントまで完璧な日本語だ。  心なしかわたしには、その口調にサラの本心があるような気がした。 〝まさかサラまでも、この鳴沢に好意を持ってるってんじゃないだろうな〟  目の前のサラの整った顔に、わたしは早瀬久美子の清楚で美しい姿を重ね合わせた。  時計の針が午後三時十五分を指している。 「さあ、仕事に戻ろう。あと二時間だ」  おどけた仕草で、課長職のゲーリーが立ち上がった。 「じゃあサラ、ぼくたちは下に戻るよ。何か問題があれば電話をして、すぐに対応する」 「わかった、疑問があれば遠慮なく電話するわ。じゃあね幌人」  彼女は鳴沢を下の名前で呼び、意味ありげに微笑んだ。 〝な、なんだ──今のは? まじで彼女はこの平凡で危険なやつに・・・〟  鳴沢は啞然とした表情で、デスクへと戻って行くサラを見送っている。  わたし以上に、言われた本人が一番驚いているようであった。  わたしはさっきの予感が、あながち的外れではないんじゃないかと思い始めた。  海外事業部の事務専門職の佐々本秋が、意味深な目でわたしを一瞥した。  秋はわたしと同じ所属から派遣された人間であった。  社内で唯一の味方である。  彼女も、サラの態度に不審を抱いたようだった。  実際、サラは小さく折り畳んだメモを鳴沢の掌に渡していたのだ。  それをわたしは見逃さなかった。  個人的な接触など、彼女のプロとしてのキャリアからしてあり得ないことだ。  とうてい常識では考えられないことが起ころうとしていた。 〝なにも俺の任期中に、こんなこと起きなくてもいいじゃないか〟  わたしはサラを心の中で罵った。  そもそも前任者の大久保という男が失踪しなければ、わたしがこんな所に来ることはなかったのだ。  いったい大久保はどこへ消えてしまったのだろうか。 〝もしかして、すでに彼は・・・〟  ふと頭に浮かんだ最悪のことを、わたしは無理矢理否定した。 〝だいたい俺とこいつらは基本が違ってるんだ。俺は単なるエリート公務員なのに、こいつらはプロのエージェントばかり。人だって平気で殺しかねない、考えるだにゾッとする〟  わたしはいまさらながらに、この任務に就かされたことを恨んでいた。  こうして二年間なにごともなく経過していた鳴沢の周りの平凡な日常が、少しずつ崩れ始めていた。
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