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〝やはりこの危機は、どうやっても回避することは出来なかったのか〟
わたしは薄れて行く世界を、なす術もなくぼんやりと眺めながらそう考えていた。
すべてが消えゆく瞬間、わたしの耳に微かに子どもの声のようなものが聞こえたような気がした。
自分も子どもの頃によく口にした言葉とともに。
四月十二日火曜日、晴れやかな春の日差しの中、昼飯を食うためにわたしは同じ部署の先輩と一緒に、会社近くの雑踏の中を歩いていた。
先導する先輩の足取りからして、週に一度は利用するいつもの店に向かっているらしい。
〝あそこの味付けは濃すぎて、ちょっと苦手なんだがな〟
さっぱり系の食事が好みのわたしは、そこで出て来るであろう丼飯を考えるだけで胸が一杯になってしまう。
わたしの名は〝立花夏男〟二十八歳。
この春先に突然出向を命じられ、いまの会社に移ってきた。
それまでこの会社に勤めていた人間の、代わりと云うことである。
前任者は大久保というやはり二十代後半の男なのだが、突然消息を絶ってしまったのだ。
それが二月半ばのことで、まだふた月も経過していない。
この失踪は事件にもならず、マスコミが報道することも警察が動く事もなかった。
単なる身勝手な現実逃避を図った、自己蒸発という線で落ち着いたらしい。
大きな権力が介在しているのだから、騒ぎになるはずはない。
その大久保の代わりに補充されたのが、わたしと言うことである。
一年前までの赴任地であるニューヨークと比べると、なんとも気の抜けた街である。
〝あのマンハッタンの喧騒が懐かしい。どうせなら次はロンドン辺りに行きたかったな〟
ここへの赴任を告げられた時、わたしは正直そう嘆いた。。
フランス語があまり得意ではないわたしは、やはり行くなら英語圏の方がいい。
ラテン語やフランス語も話せない訳ではないが、やはり母国語と変わらない英語ほど流ちょうには行かない。
〝それが選りによって板橋区だなんて、そりゃあんまりじゃないか〟
時々そう思うこともあるが、仕事としてはいまの方が何倍もの緊張を強いられているはずであった。
事務機器の営業職がこの会社でのわたしの仕事だが、それとは別にもう一つの重要な役割が課せられている。
同じ部署の先輩である〝鳴沢(なるさわ)幌人(ほろひと)〟の監視役である。
なにをどうしろと云う訳ではない。
ただ日常的に監視し、もし彼の身に危険が迫った場合にはそれと悟られないように救け補助すること。
上としても、多分それ以外に命じることが思いつかないのだろう。
はっきりとどうすれば良いというマニュアルが、そもそもどこにも存在しないのである。
とにかく良いことであろうと悪いことであろうと、なにか刺激的なことが起きないように見守れと言うのだ。
しかし、平凡を絵にかいたような彼の日常は危険とは程遠く、特に何かが起きる気配は皆無であった。
この平凡を持続させるというのが、わたしの至上任務なのである。
彼を平凡に暮らさせることで、危険が回避できるのかどうかさえはっきりとはしていない。
わたしは表面上は中小企業に勤める、ありきたりなサラリーマンそのものであった。
上から説明された任務期間は一年間、それを過ぎれば新しい人員が入れ替わりに出向してくることになっている。
その間無事に過ぎてくれれば、わたしは一気に昇進することが決まっている。
こんな状況がいつまで続くのか? と言うことは世界の誰にもわからない。
鳴沢幌人は九州熊本県の出身で、中学生時代に両親の都合により一緒に東京へ移って来たらしい。
年齢はわたしより三歳上の、三十一歳である。
配偶者はおらずいまは両親から離れ、埼玉県A市のアパートで気ままな一人暮らしをしていた。
ターミナル駅である池袋から伸びている私鉄の沿線で、会社のある板橋区のN駅へは乗車時間十分とかからないほどの距離である。
彼自身はなんの変哲もないただの男である。
飛び抜けた能力がある訳でも、その血筋の中になんらかの秘密が隠されている訳でもない。
ただ彼は〝世界で最も危険な男〟の中の一人だと云うだけで、取り立てて特筆すべき点はなにもなかった。
それどころか、並の人間以上に平凡な男である。
その平凡な男を監視するわたしの毎日も、また平凡に過ぎて行った。
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