水鏡の向こうは

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 天井があるかのように、空一面を鈍色の雲が覆う。  雨か、と溜め息をついた。  芯まで突き刺すような冬の雨はもってのほかで、かといってじめじめと体に張り付く夏の雨も苦手だった。  オフィスの窓から見えた、白く煙る雨。室内にも何となくじめじめとした重たい空気が満ちていて、息を吸うと肺の中まで重たくなった気がした。  普段は気にならない、むしろ整理整頓されていると好印象を与える職場も、今日ばかりはひどく殺風景に見えた。 「さて、と」  私は軽く伸びをすると、荷物をまとめて立ち上がった。 「お疲れ様です」  オフィスに声をかけるとやまびこのように同じ言葉が返ってきた。  一階へ下り、出口に向かう。  外へ出ると、石と草が混ざったような、そこに水まで加わったような匂いが濃くなった。ペトリコールって言うんだっけ、と心で呟きながら、持っていた傘に手をかけた。 「あれ?」  すぐ脇に人が立っていた。屋根の下から空を窺っている。顔を出しては引っ込み、鞄を両手に持ったり片手に持ち直したり、落ち着かない様子だった。  相手も私に気づいたのか、ばっとこちらへ首を向けた。 「あ、中谷(なかたに)くん」  私が名前を呼ぶと、お疲れ様です、と小さい声で言って下を向いた。普段は堂々と仕事をこなしているのに、なんだか彼らしくない。 「雨、やっぱり降ったね」  天気予報って当たるんだね、と続けて口にすると、彼はますます項垂れた。ぎゅっと握る手には鞄と──。 「あれ、傘は?」  言ってから、はっと口を押えた。そのひと言は彼にとって、ダムを決壊させる激流と同じ威力を持ったに違いなかった。 「まあ、タクシーでも呼ぶから」  だから大丈夫、と力なく笑う彼を、そのまま雨の中に放り出すわけにはいかなかった。  私は意を決して口を開いた。 「あの、よかったら私の傘で一緒に帰らない?」  水溜まりに、自分の顔が映る。鏡のように。  雨粒が絶えず水面を揺らしている。波紋が幾重にも広がる。  ぴちゃんとローファーの足でその均衡を崩してみる。いい年した大人なのに、子供のように次から次へと水溜まりを跳ねてみたくなる。その理由に心当たりがないふりをしても、私の胸の奥を何かがくすぐる。  傘の下の彼の目は何を考えているのだろう。  知りたい気持ちもあったが、うっかり見つめれば目が合う事故に遭いかねない。  彼の長い脚がしなやかに、ゆっくりと交差する。その様子をすぐ隣で見ていられるのだから、どんな特等席よりも特別だ。  彼は私になるべく雨がかからないように、かつ視界が狭まらないように、絶妙な角度で傘を傾けてくれた。ただの傘だというのに、同じ屋根の下で共に過ごしているようだと、とんでもない方向へ走り出した想像を慌てて回収する。  気にしていないふうを装って、時折横を盗み見る。彼はただ前を見て歩くのみだ。足元に気を付けて、とか、雨すごいね、とか、当たり障りのないことをひと言ふた言呟くだけだった。  それに対し、気をつけるね、とか、そうだね、とか、そんなふうにしか返せない私も似たようなものだろう。  もし彼の気持ちも、私と同じだったら。  考えるだけならただと言わんばかりに、自分に都合のいい考えがぼうっと浮かんできた。  果たして、同期の中でも(ぬき)んでている彼が、私なんかに何かしらの強い感情を抱くだろうか。  彼は仕事中でも休憩中でさえいつも笑顔だ。  後輩の仕事の遅さを注意するよう先輩から指令が出たときも、後輩を責めることも、かといって盲目的に庇うこともしなかった。すなわち彼は、誰かに媚びることも、横柄な態度をとることもしないのだ。  私の心の中には、岩にぶつかっては砕ける荒波が次々と押し寄せている。それに対し、彼の心は水鏡(みずかがみ)そのものなのだろう。結局はそうなるのだ。  長いようで短い旅路は、まだ半分にも届いていない。それでもここまでずっと訥弁だった自分が妙に惨めである。相手に傘を貸しているのはこちらなのだから、多少尊大になっても(ばち)は当たらないはずだ──そんな浅はかな考えで心の均衡を図ろうとする自分に肩をすくめた。  雨粒は相変わらずパラパラと私たちの屋根にぶつかる。  心臓の音なんて聴診器でも当てない限り聞こえるはずがないのに、いざというときの保険をつい探してしまう。今日も例外ではなく、傍を通るたびに雨音を激しく鳴らす自動車に、内心手を合わせていた。  とはいえ傘の周りを取り囲む豪雨は、紛れもなく私たち二人とそれ以外とで境界線を引いている。  例えば、世界が傘の外か内かの二択に分かれたとして、その傘の内側が左右対称になることは恐らくないだろう。妄想だ、と私が一刀両断した欠片は偏って、歪で大きいほうの塊が私の頭を徘徊する。  今この時だけでも、彼の思考が、意識が、傘の内側だけに向けられていたら。  雨特有の香りが、濃い輪郭線を伴って私の鼻に広がった。 「こんなに降るとは思わなくて」  不意に彼の言葉が雨音を遠ざけた。さっきのようなおどおどした声ではなくなっていた。 「天気予報、もっと信じればよかったなあ。ま、どちらにしろ折りたたみすら忘れたんだけど」  昔からドジだったから、と声を上げて笑った。冷静な彼がこんなに溌溂と笑うのかと、肩の力が抜けた。おまけに持っている傘を揺らさないのだから、二重の驚きだ。  初めて一緒に帰ったが、今日いちにちで彼の色んな面を見てしまった。  天気予報を鵜呑みにしないところは、何でも自分の目で確かめたい彼らしかった。けれど安全策を採らなかったのは、彼らしくなかった。いや、それも私が知らなかっただけの、彼らしい一面なのだろう。  駅に入ると、傘をさっと畳んで雫を振り落した。 「はい、今日はありがとう。すごく助かった。ここからはコンビニにでも行って買うよ」  彼の口は何の歪みのない綺麗な弧を描いた。目が愛嬌たっぷりに細められている。  百点満点の営業スマイルだ。  きちんと相手の目を見て話すこと、という先輩からの教えをきっちり守った、純真無垢な瞳に貫かれる。  恥ずかしいやら、少し寂しいやらで、私の笑みは引きつってしまう。 「え、そ、そんな、こちらこそ、ありが、とう……」  ただ「ありがとう」と言うだけなのに、どうしてこうも不自由になってしまうのか。頬がじわじわと熱さを増した。  相手はそんな私をきょとんとした顔で見つめ、目をしばたたかせた。変なやつだと思われただろうな、と身構えると、今度は彼のほうが、耳まで赤くなっていった。 「え」  営業スマイルが、崩れた。  彼は口に手を当て、背中を丸めた。明らかに動揺している。  これでは本当に水鏡だ。左右対称になることなんてないと、きっぱり否定したばかりなのに。  幸い乗る電車は反対方向だ。とりあえず早々に分かれ、一旦立て直そう。  と、決意していると。 「あれ~? 二人とも一緒だったんだ~」  低くて芯のある声が聞こえた。女性のハスキーボイスだ。そちらに体を向けると、もしかしなくとも先輩の森田(もりた)さんがいた。 「なになに、付き合ってるの? いいねえ。じゃ、お疲れ様ぁ」  彼女はこちらに反論する隙も与えず、嵐のごとく改札の奥へと消えてしまった。  水鏡は、こちらからあちらへ同じものを映す。私には無関係だと思っていたのに、目の前でうろたえる彼は私の手に「期待」の二文字を握らせた。  もう水鏡には戻れない、絶え間ないさざなみは向こう側の景色を見せてはくれない──そんなふうに盲目になる暇もないほど、彼はまっさらだった。 「明日も一緒に帰ってもいい?」  私も私で直視する勇気はなかった。が、相手は溶けたアイスクリームのようなとろっとした笑顔で、もちろん、と頷いた。
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