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──月が綺麗だよ。
その言葉は受け止められることもなく、路面に落ちてすっと消えた。まるで一片の雪のように。
午前二時二十八分。交差点には彼女を除けば、誰もいない。つい先刻まで彼が立っていた辺りにあるものは、惨めに萎れた花だけだ。
いつもより二分も早いな、と思う。
時計のように正確に、きっかり二時半に“帰宅”していた少年。その僅か二分の誤差が、彼はもうここには現れないことを、行くべきところへ旅立ったことを暗示しているように思えた。
「今度は僕が奢る、だって」
誰にともなく、呟く。
「……嘘つき」
自分がついてきた沢山の嘘を棚に上げて、小さく罵る。
ふと、近くの店のショーウィンドウが目に留まった。暗い鏡となった窓ガラスに、皮肉っぽく口の端を吊り上げた女の姿が映し出される──やっぱり、何度見ても、彼には似ても似つかない。どれだけ姿を模倣しても、彼がごく自然に身につけた透明感、触れれば壊れてしまいそうな繊細さは再現のしようがない。
彼は気づいているのだろうか? おそらく気づいていないに違いない。彼が挙げた幽霊の特徴が、他ならぬ彼自身のそれであることを。彼はもう、自分の姿を鏡に映すことすらかなわない。
先刻、話をしながらちらりと覗いたウィンドウには、一人しか映されていなかった。
鏡の世界で談笑する自分は、どこまでも孤独で滑稽だった。
不意に、目の前の景色が、ぐじゃりと滲んた。
あの少年に近づくために、彼女はなんだってやった。気に入っていたセミロングの髪さえ切り落とした。それなのに彼はやっと近づいた途端、半永久に彼女の手が届かないところへ行ってしまった。
今夜彼女は、沢山の嘘をついた──が、もっとも唾棄すべき嘘は、訊かれてもいないのに挙げた、好きなものだったかもしれない。
彼女は本当は、シャボン玉なんて大嫌いだった。
何故なら触れた瞬間、弾けて消えてしまうから。
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