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「怖い? 焼き芋の歌が?」
無用になった敷き紙を受け取りながら、彼女はますます訝しげな顔になった。
こくりと大きく頷いて、彼ははにかんだように先を続ける。「食べたら何も残らない、全部なくなっちゃう、みたいな歌詞があったでしょ? 僕、あの歌を初めて聞いた時から、あのフレーズが怖くてたまらなかったんですよ……なくなるってどういうことなんだろう。この世界から消えたらどうなっちゃうんだろう。そう考えだすと、とてもおやつの焼き芋どころじゃなかった」
「難儀な方向に繊細な人だったんだねぇ、君って」
呆れたような口調になりつつも、彼女の声には気遣いが滲み出ていた。
その気遣いを察したのか、彼の声もまた気楽な調子を帯びる。
「ただの臆病な幼児の戯言ですよ。焼き芋は食べられなかったけれど、だからといって絶食を貫く度胸まではなかった」
「あはは、そりゃそうだ。食べ物の来し方行く末を気にしだしたら、霞を食べる仙人になるしかなくなる」
「仙人、か」彼は呟いた。「そりゃいいな」
沈黙が流れた。
一陣の寒風が吹き抜けていった。両腕をさすりながら、唐突に彼女は話題を変えた。「ね、マッチ売りの少女ごっこしない?」
「マッチ売りの少女ごっこ?」
「そ! ……あ、別にマッチは使わないよ? ルールは簡単。今ここに現れてほしい、好きなものをあげて寒さをしのぐ。ただそれだけです」
「それ、ゲームって言えるんですか」
そんなツッコミをよそに、彼女は高く手を上げた。「じゃーあたしから。あたしが好きなものはね、シャボン玉!」
「……シャボン玉、ですか」
「そうそう! あんなに綺麗なものってないと思わない? あたし、できることならあれをいつも手元に一個置いておきたい。財布に入れたり、棚の上に飾ったりして、ね。はい次は君の番! 君が好きなものは、なーに?」
「好きなもの、かぁ……」
口元に手を当てて、生真面目な彼は考え込む。「何か具体的な物体じゃなくてもいいですか?」
「いーよいーよ、なんだって」
しばしの黙考。それから彼は、おもむろに口を開いた。
「僕は……静かで空気の澄んだところかな。あたりには車もバイクも一台もなくて、誰もが心穏やかに過ごせて、あと……できればあったかいところ」
ちょうどその時、すぐそばをオートバイがエンジン音も高らかに通過していった。黄色信号にもかかわらず交差点に侵入したバイカーは、通りしなに空き缶を路面に捨てていった。
微かな排ガスの臭気。
騒音が静まってから、彼女はおもむろに口を開いた。「行けばいいじゃない、静かなところ。何もこんな、寒くて空気の悪い交差点なんかにこだわってないでさ」
「忙しいんですよ、これでも……でも、ま、それって言い訳かな。現にこうして、幽霊を撮りにくるくらいの余裕はあるわけだし」
「そうっしょそうっしょ? だいたいだね君、幽霊だったら本人の許可なしに撮っていいってモンじゃないのだよ? 幽霊にだってちゃーんと肖像権はあるんですからね。勝手にSNSに画像をアップしたら、肖像権侵害であの世の裁判所から訴状が届くからね?」
「訴状? あの世にも裁判所なんてあるんですか」彼は何故だか、ミケランジェロの『最後の審判』を連想した。
「もちろんさ。そうなったらすごーくめんどくさいんだよぉ。あの世の弁護士を雇わなくちゃならないし、賠償金の支払いだってあの世の通貨だし」
「あの世のお金、僕持ってないや」
「あ、ちなみに通貨はフランです」
「ユーロじゃなくて? なぜに昔のフランス通貨?」
「未練を残して死んだ人の魂が現世を彷徨うように、成仏できない通貨の魂ってのもあるのだよ」
「もっと流通したかった、って?」
「その強い怨念が、二〇一〇年のユーロ危機に繋がったのです」
「それ他の欧州諸国にしてみれば、完全にとばっちりじゃんか!」
ケタケタと馬鹿笑いする女。
一瞬、少年も釣られそうになった。が……そこでふっと、彼は表情を暗くした。「……嘘なんだろ」
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