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はじめて一人で暮らした街には川があった。背筋を伸ばすようにまっすぐ流れていくかと思えば、緩やかにカーブを描き夕焼けにとける様に進んでいく。支流が走る。かすんで見えなくなる流れをたどっていくたびに、未知の感覚にであえるような気持になった。晴れた日も雨の日も、自然と目がいって、その街のどこにでも川は行き届いていた。ほとんど街そのものだった。川には風がそよぐ。川沿いを歩く人たちが語り、橋の上で佇む人が何かをたどるように川を眺める。人々の間を風はいろんな形でそよいでいく。かすかに、強く、吹き抜けて。風は川の音が聞きながら、流れていく。この街なら歩いていけるような気がした。
その街を選んだのに理由はなくて、ネットで適当に選んだ物件をみせてもらうついでに、不動産屋さんが進めてくれたからだった。不動産屋さんに連れられて、知らない街を通り過ぎ、お寺の脇道に車をとめ、5分ほど歩いたところに見えたのは古いマンションだった。
「ちょっと古いんですけど広くておすすめですよ」
うすぐらいエントランスを抜けて、階段をのぼった2階の真ん中の部屋。子供の頃の友達のだれかの家みたいだなって思った。不動産屋さんが鍵をあけている間に、廊下から外を眺めているとマンションの前の通りを肌着姿のおじいさんがてぬぐいを振り回しながら上機嫌で歩いていくのがみえた。
「すぐそこにね、銭湯があるんですよ」
これまでのお仕事っぽい声ではなくて、少しだけ楽しそうな声で不動産屋さんが言った。
「詳しいんですか? この辺?」
私から質問したのははじめてだったかもしれない。
「僕もこの街に住んでるんです。さ、どうぞ」
ゆっくりとドアが開かれる。うながされるままに中に進み、すぐに足をとめた。
光が、
「すごく日当たりいいでしょ?」
部屋を包んでいた。玄関をはいってすぐにキッチンがあり、その奥に二間続きの和室が見える。ゆっくりと部屋に進む。光の中にうっすら舞い上がるほこりのきらめきとか。真新しい畳の薫りとか。知らない場所なのになつかしい。キッチンの床は歩くたびにかすかにぎゅっぎゅと鳴った。
「こっちがお風呂です」
この場所に来る前に訪れた部屋はふたつ。どちらも私がネットでみつけて内覧させていただいた。住んでみたいと思った部分を持っていたはずなのに、間取り図と目の前の部屋をうまく一致させることができないまま時間が過ぎてしまった。この部屋は私が入力した条件とは何ひとつかみあっていない。なのに、この部屋がほしいと強く思った。次につなげるためだけに通り過ぎていく川のある街の部屋の、部屋いっぱいの透明な光がいろいろな境界線を消してくれるようだった。
「決めます」
その日は2月とは思えない暖かな陽ざしで、そう声にだしたとき、ずっとのどが渇いていたことにはじめて気づいたことを覚えている。何を言われたのか考えるように首をかしげた不動産屋さんは、「あっ」とうなずくと、あらたまったように「ありがとうございます」といった。
入居のための審査書類を取り交わしたあとに、ひとりで街を歩いた。ゆったりと広い道を歩く私の足から影がのびていて、街の中にとけこんでいるとはまだ言い難かったけど、なじんでいこうとしているとすなおに信じられた。続く道を進んでいたら川に出会った。橋のたもとで足を止める。風に触れた街路樹の影が私の上を通り過ぎる。樹々が呼んだ風が私の髪をくすぐる。私は頭をあげて川の流れていく先を見た。この川はどこかに帰ろうとしているのか。それとも行こうとしているのか。
そうして私は東京の東の端にあるその街に引っ越した。
今はもうあの街を離れてずいぶんたっている。でも、ずいぶんたって距離が生まれたせいだろう。あの部屋に今も暮らしているような気分になってしまうことがある。あの街で会った人たちのこと、過ごした時間のこと。そういうものを時折とりだしてみたくなる。
何から話してみようか。
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