そよそよと

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そもそもひとり暮らしをすることに母はあまりいい顔をしなかった。 「相談もせずにいきなり決めるなんて」  土曜日の夕方。父も妹もまだ家に帰ってきていなくて、母もどこからか戻ってきたてだったから、暖房がちっとも効いていなくていつもよりもリビングが冷えたままだった。リビングの隅に置かれた観葉植物の土がからからに乾いていて、コップで水を注いであげる。じわぁっと水が広がって土がやわらかそうに盛り上がる。みずやりは妹にお願いしておかなくてはと思う。 「ちゃんと聞きなさい」  それは母の口癖で、幼いころから言われ過ぎていてつい聞き逃してしまう。母が何度かそう声をかけたらしいけど、私が顔をあげたときには夕食の支度に忙しそうだった。キッチンからせわしなく色んな匂いが立ち昇り部屋をぐんぐん占拠していく。リビングにあるたくさんのものに囲まれながら、私はもう一度あの部屋のことを思い出していた。何もなくて暖かい。井草の薫りが体のどこかにまだ残っている。  翌朝、リビングのテーブルの上に置いておいた書類には父の字で保証人欄がしっかりと記載されていた。父の字はいつもどうどうとしている。私はこういう字を手に入れたかったのかもしれない。こういう字を持つ人に私もなることを家族は期待していたのだろう。書類を眺める私の姿がテーブルに映りこむ。黒光りするような年季の入った分厚い木製のテーブルは母お気に入りのアンティーク。どんなに頑張っても私の力じゃ動かせない。今はもうどこにあるのかわからない小さな傷をテーブルにつけた幼いころに、母は私を打った。それ以来苦手意識がぬぐえなかったけれど、もうすぐ毎日会えなくなると思うと、急にいとおしくなりテーブルに頬をつける。ひんやりと気持ちがいい。そのまま部屋の中を眺める。ずっとみてきた光景が、とても新しく見えた。新しくて遠い。その距離越しに私は家族をみていたのかもしれない。次の部屋には小さなテーブルを買おう。  私の新しい部屋の玄関扉は擦れるような音をたてて開く。作りかけの暮らしの匂いが私を出迎える。少しのほこりっぽさと青い畳の匂いなんかがまじっている匂い。部屋にいるときはいつの間にか馴染んでいるのに、外から帰ってくるといつも新しい匂いを知る。引っ越してすぐの知らない匂いという印象は遠くなったけど、まだ私の匂いにはならない。もっと色々なにおいを知って行けるのが楽しみだった。 音も色んな音色が届く。実家では、外の声が届く機会はほとんどなかったけれど、今は違う。夕方に聞こえる近所の人たちの話声、部屋を包むような雨の音、夜に届く誰かのみているテレビの音すら楽しみになる。何も否定しないでいられる時間が心地よかった。 そんなふうにして引っ越して来てから2週間が過ぎた。くしゃっと落ちていた台布巾を拾おうとかがんだら床に蟻の行列をみつけた。家の中に蟻がいる、というのがとても新鮮でまじまじと見てしまう。行列をたどっていくと、シンクの下の引き出しに続いていた。そこに何があるか思い出して「あっ」と思わず声が出た。おそるおそる引き出しをあけると、昨日買ってきたお砂糖の袋がやぶれて砂糖がこぼれてしまっていた。蟻たちは一生懸命にそのお砂糖を運ぼうとしていた。このまま置いておいたら全部砂糖を運びきるんだろうか。観察したい気はしたけどやめた。  買ったばかりのお砂糖をやはり買ったばかりの容器に移し替え、ちょっと考えてからキッチンのつるしだなに置きなおす。蟻たちは右往左往している。こんな風にペースを乱してしまったことが心苦しいけれど、どうしていいのかわからない。母はどうしていたのだろうかと考えようとしたけれど、そもそも実家のマンションでは蟻が出たなんて聞いたこともない。何重も外から離されているのだから。かわいそうかなと思ったけど、できるだけゆっくりと箒でさらって塵取りに落とす。必死な蟻たちが私の手や箒をのぼってくる。とにかく外に連れ出そうと決めた。  マンションのエントランスはうすぐらい。エントランスと言っても郵便ポストがあるだけだけど。壁にはポスターが貼られていた跡がある。時間を吸収したような色合いのセロテープの切れ端と、何が貼られていたのか誰も思い出せなさそうな四角い日焼けの跡。隠れていたモノが急に光にさらされてしまうとき、上にあったものと下に会ったものとの間で互いに自分の一部を受け継ぎあうことはあるのだろうか。指をのばしてセロテープの端切れのもろい硬さにふれていると、蟻は私の腕をのぼりつめてきた。あわてて外に出て、小さな花壇のツツジらしきものが植えられている場所に、そこなら蟻たちにも悪くはないかと思って塵取りを置いてみる。蟻たちはちりじりになって土におりたり、逆に塵取りにのぼったり。移動してきた距離に驚いているのだろうか。いつものことだと慣れているのだろうか。 そんな精一杯な光景を見るともなく眺めていたら、「ヨシ……」と呼ぶ声がした。あわてて顔をあげると、不思議そうな表情で私をみている女の人がまず目に入った。長いストレートの黒髪をさらりと揺らし、小首をかしげている。年は私と同じくらいだろうか。2月のワンピースが真っ白に翻る。その数歩後ろにやはり同じ年くらいの男性がたっていた。声の主は彼だろうか。どちらも知らない。目をつぶってゆっくり開けても女の人はやはり私をみている。恥ずかしい様ななんだかわからない気持ちのままあせって聞かれてもいないのに話しだしてしまう。 「あ、すみません。あの、部屋に蟻がいて、あの、蟻が道を間違えて部屋にきちゃったみたいで」 「あり?」  女の人が無表情につぶやいた。彼女の後ろに立つ男の人は、かすかに目を開くようにしてその女性を見た。それから何も言わずにすっと視線を私に投げかける。距離をはかるようなその視線。きびしくはないけど色んな言葉がつまっていそうに思えて息苦しくてからだの軸を失いそうになる。さらにあわてた言葉が空回りしながら口から飛び出す。 「蟻が、迷って来ちゃって。あの。全部は無理でも、数匹でも、外に連れ出してあげたくて」  でまかせじゃないことを示したくてまだ私の腕を登ろうとして慌てている数匹を指し示す。 「ふーん」  女の人が花壇に置いたままの塵取りに視線を落とす。あわてふためく蟻の行く道を見守っているようにも、花壇が荒らされていくのを静かに怒っているようにも見える。もちろん私は怒っているに違いないと先走り、説明しようと試みる。 「いや、あの、元居た場所じゃないのはわかってるんですけど。引っ越してきたときはいなかったので。でも、あの、違う場所でもいいんじゃないかと思って」  自分で自分の説明を塗りつぶしたくなる。状況を説明したい気持ちだけ先走って、言葉が全然追いつかない。いつもこんな風になってしまう。暑くもないのに変な汗がわきをつたい、伸びかけの髪が顔にかかる。酸っぱいようなにおいが自分からする。まとまらなさが嫌になる。こうならないための練習をするつもりだったのに。何もわからなくなってしまい仕方なしに会話が途切れた。 不思議そうに私を見ていた女の人は、私が口をつぐんだとたんに、にっこりと笑った。そうすると急にくだけた雰囲気になって女の子という感じ。 「203号室?」  私の新しい部屋は、櫻木マンションの203号室だ。 「そうです」 「あたし、櫻木でーす。よろしく」 ということは、この人が大家さんということになるのだろうか。女の人は腕をなでながらマンションを見上げる。 「ここ、うちのおじいちゃん家。おじいちゃんは4階に住んでるから困ったら何でも言ってやって。大家仕事が唯一の生きがいらしいから。あ、あたしはヨシノ。ほぼ無職」 「はい。あの、鈴川、鈴川実紀です。同じく、無職、です」  彼女に釣られて自己紹介したことで仕事を辞めてしまったことの軽やかさと不安を同時に思い出す。うしろにいた男の人にも挨拶するつもりでいたのだけど、女の子が匂いもわかるほどの距離にぐいっと飛び込んできた。不安が凝り固まったに匂いしかしないだろう私と違って柑橘系の香りがほのかにした。 「え!? このマンション年齢層高いから、同い年くらいの子久しぶりかも。あたしもこのあたりに住んでるからよろしくね。蟻のことはおじいちゃんに言っとくから。蟻がいきなり入り込んできてわちゃわちゃされたらほんと困るよね」 「いえ、私が砂糖を置いたせいです。蟻のせいじゃないんです。蟻はなにも間違えていないんです」  という言わずもがなということを言ってしまう。そもそも蟻によりそうほどの愛着もなかったのに、自分に言い聞かせるためだけに言ってしまう。  女の子、ヨシノはまぶしそうに目をしばたたかせた。冬のおわりの太陽の、生まれ変わろうとするように柔らかい眩しさが私たちを照らしていた。ひと息ついて気づいたときは、男の子の姿はとっくに見えなかった。 この街で暮らしていく間にヨシノと会えたことを良かったと思っている。だけど、そう思う私の気持ちはどこにも残せなかった気がしてならない。あの頃の写真はなくて、ほんとうにそういう時間があったのか自信が持てなくなる時もある。私が作った幻の時間だったのじゃないかって。それに、ヨシノのほんとうに好きなものがなんだったのかわからないままになってしまった。でも、それでもいいのだろうと今は思う。うまく眠れない夜とか、あの頃のことをひとつずつ思い出してみる。カードを引くみたいに記憶をめくり、その絵を見るだけで色んな気持ちがじんわりとわいてくる。心も体もゆるんでいつの間にかうとうとして、思い出と夢の真ん中で、私はあの日に戻っている。
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