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西崎の胃袋
「自分を大切にするって…僕なんかがそんなことしてもいいんですかね?」
大樹は小首を傾げる。
「いいに決まっているよ。私だって褒められた生活をしてなくて、世の中全部を恨んでいたこともある。そんなお婆さんも今は幸せだと実感しているよ。いいんだよ。あんたが幸せになることが供養なんだから」
「供養、なんですね」
「そうだよ。あんたが生きていて、長生きして、そしていなくなった人のことを時々思い出してあげることが供養なんだ。そのうちに目の前のいなくなった人たちの顔が穏やかになっていくから」
「穏やか…?」
大樹は愕然とする。彼の記憶の中の母親と妹の顔がぼんやりする。目を凝らしてみてみたら、二人には顔がなかった。どんな顔で、どんな表情をしていたのか思い出せない。
お祖母ちゃんは? 祖母を思い出す。セピア色のぼんやりした記憶の中の祖母にも顔がない。祖母がいたグループホームの高齢者たちのぼやけてよく見えない。
最近まで一緒に暮らしていた父親ものっぺらぼう。
…顔がない…!
「大丈夫? 顔色が悪いけど」
「わっ」
眉を寄せて大樹の顔を覗き込む彩弓に大樹は飛び退いた。
「…思い出せないときは思い出さなくてもいいんだよ。時がくれば思い出すよ」
幸子がゆっくりと大樹の背をさする。久しぶりの人の手の温かさにホロリとしてしまう。
「今日はご飯を食べてから帰ればいいよ。あんたも一緒に食べて行きな」
声をかけられた西崎が戸惑いの表情を浮かべる。
「素麺だけど、お汁は大輔さんが用意してくれるの。すっごく美味しいのよ〜って知ってますよね、ね?」
深耶の誘惑に簡単に西崎は墜ちた。実際は深耶ではなく、大輔特製の素麺汁に堕ちてしまったのだが。
「二人とも食べてって。天麩羅ももらってくるから。南さんは食べれそう? うどんでもそばでも用意するけど」
大樹は焦る。それはきっと蕎麦屋の商品だ。
「毎回はないよ。今回は特別。だけど、大輔さんのうどんも美味しいよ」
深耶の弟の光がニッコリと笑う。
「じゃ、じゃあ、皆さんと一緒に素麺をいただきます」
「そうそう、皆で食べるご飯は美味しいんだから。彩弓ちゃん、素麺を茹でるよ」
「わかったわ。賑やかになりそうみたいね」
「賑やかになるから。はいはい、彩弓ちゃん、行こう」
幸子、彩弓、深耶が部屋を出る。共通キッチンで支度をするようだ。
光は西崎と蕎麦屋に向かう。残されたのは大樹とオーナーの大熊葵。
「騒々しいでしょう。疲れましたか?」
「大丈夫…、いえ少しだけ」
「食事が終わったら、西崎さんに送ってもらいましょう」
「はい」
暑い中、歩かなくても済むのはありがたい。
「ここを気に入っていただければ、西崎さんにお話ください。ただし、入居期間は有限です」
「有限…?」
大熊葵はそっと頷いた。
「ここは一時滞在の場所ですから。原島さんにも、松倉姉弟にも時期が来たら退去していただく約束です。幸子さんももっと高齢になったら介護施設に入られるかもしれませんね」
「一時滞在…。ここはどうしてそういう住居になったんですか?」
「…私自身が中学生の頃に家にいられず、かと言って行く場所もなく、彷徨っていた時期があるんです。居場所を作りたいという気持ちからですね」
「…大熊さんもいろいろあったんですね」
「…そんなにいろいろなことはないですよ」
二人の間に沈黙が訪れる。
「薬味を運んできたよーって、ねぇ、いつの間に仲良しになったの?」
「な、仲良しなんてそんな…」
「よくわかったね」
「だって~、葵ちゃんが笑うから〜」
本気なのか違うのか、よくわからないふわふわした感じで深耶は笑いながら、薬味やお箸をセットしていく。
用意しているのはさっきまでいた人数よりも多い。
「幸子さんに会いたくて、あの子たちも来るかな~って思って」
と言っているそばから中学生くらいの男の子が二人、テラスの窓を開けて入ってくる。
「こんにちは~、あれ、お客様?」
「そう。見学者」
「僕たち、ここの子どもカフェに来ていて、幸子さんのご飯が好きなんです。葵さん、今日もご馳走になっていい?」
「そのつもりできたんだろ。遠慮しなくていいよ」
「その代わり、蓮ちゃんと遊ぶよ」
「ジイジが連れてったんだ。また別の日に頼むね」
葵と中学生たちが話している間に西崎が天ぷらとつけ汁を運んできた。出汁のよい香りが部屋に広がる。
「わー、ラッキー」
中学生たちもセッティングに参加して、あっという間に大量の素麺もやってきて、食事の支度が整った。
「いただきます」
手を合わせて竹の割り箸で天ぷらを塩につける。
「…!!」
サクサクの衣に甘い筍。食べたことがない。こんなに旨い天ぷらは初めてだった。
素麺も美味しいけれど、それはきっとこの素麺汁が…、大樹の考察はここで断たれる。
「うめーっ、サイコー!」
叫んだのは西崎。
「そうだろ。たくさん食べて、ここのために働きな」
幸子が西崎に海老天を取ってあげている。
「ここのために日々頑張ってますよ」
「私たちに対するディスりがすっごいんだけど」
「事実を述べているだけです。あー、この漬物も旨い。幸子さんは漬物の天才です」
「…あんたは怒れないよ、まったく」
呆れた顔の幸子に中学生が話しかける。
「幸子さんの料理は美味しいと褒めているだけだから」
「そうかね。でも、最近は彩弓ちゃんに随分任せているよ。腰が痛くてね」
「あら、湿布する?」
「今はいいよ。お風呂上がりに頼むね」
さっと彩弓はノートを広げ顔をしかめた。
「湿布はもう頼まれていたわね」
「直前にまた頼むよ。彩弓ちゃん、食べたら西瓜だね」
「西瓜? ラッキー」
賑やかに進む食事に大樹の胸が詰まる。こんな風に食事をしたことがあっただろうか?
ふと見た西崎の表情が穏やかで、味だけではなくこの雰囲気にこの人の胃袋は掴まれてしまったのかも…、と思った。
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