長い日曜日

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ICUから出てきた二人は言葉もない。 じきに警察官がやってきた。事故の説明と彩弓のリュックを持ってきて返却してくれた。 またしても受け取りのサインが必要で、孝之が書類に向き合っている間に藤代がリュックの中を確認する。 警察官が気まずそうに視線をそらしたのを孝之は見逃さなかった。 「…なんなんだ、これは…」 藤代が絶句しながら持っているのは離婚届。彩弓の分だけサインがされた…。 孝之は理解した。彩弓には体も心も許せる人間がいるのだ。そのために離婚をしてほしいと言ってきたのだ。 いつから? よそよそしくなった1年前から? もっと前から? なんで? あんなに愛し合っていたはずなのに。 愛し合っていたはずなのに? …なんだ、過去形じゃないか。愛し合っているという現在進行形ではないじゃないか…。 彩弓の愛は現在進行形で、孝之(おっと)以外の誰かに向けられている。 「お義父さん、申し訳ありません」 俺が不甲斐ないせいで。彩弓に甘えて、彩弓を蔑ろにして。 でも…俺は彩弓と共に子どもを守る仕事がしたかったんです。彩弓と一緒に守りたかったんです…。 言葉にならない思いが溢れる。 「孝之くんっ」 焦った義父の声。体が傾いて、膝から崩れ落ちた。少し遠くで見ていた中井が駆け寄る。 「多分、昨日からほぼ休みなしだと思うんです。原島さん、食事はされました?」 答えられない孝之の代わりに義父が答える。 「いや、多分ああいう事件の後、数日は物が食べられなくなってしまうんですよ」 車いすを押しながら研修医が現れ、中井と二人がかりで孝之を車いすに移す。 「とりあえず外来で診ます。多分、脱水症状だと思うんですけれど」 「私も行きます」 義父が孝之に付き添う。義父に聞こえないような小声で研修医が囁いた。 「僕たち、原島さんの味方ですから」 こんなに頑張っている原島さんを捨てて他の男に走るだなんて、しかもあんなに体に跡まで残して。 中井の非難めいた視線の理由をやっと察した。 サレ妻ならぬサレ夫として同情される男になってしまったのか…。気持ちが沈む。 でも、本来は彩弓はそんな女じゃない。誰かを踏みにじるとかそんなことに怒りを覚える方の女だ。 そんな彩弓を追い詰めたのは自分なのか…。 気がつくと寝ていたらしい。小さなベッド上で目が覚めた。腕には点滴。カーテンの向こうはざわついている。 ここは救急外来。救急車で運ばれた人を最初に見る場所だ。ベッドを占領していたら、対応できない人が出てしまう。移動しなければ。 そっとカーテンが開いた。見覚えのある医師、本橋だ。 「脱水症状だ、無理でも水分は取ってくれや」 「はい。大丈夫です、ここは空けていただいて」 「まだ他が空いているからいいや。どうにもならなくなったら点滴が終わるまでは車いすでうちの休憩室かな」 さっとカーテンを閉じて本橋が中に入ってきた。 「人生いろいろあるさ。今が一番悪いのか、先にももっと悪いことが待っているのかわからないけれど、俺たちは原島さんの誠意を知っているから。ま、それだけ」 あっという間にカーテンの向こうに消えたと同時に「本橋先生ーっ」という呼び声が聞こえた。救急医は無駄口叩く暇もないらしい。 関口や手嶋の顔が浮かぶ。義父の顔も。 孝之を信頼してくれる人がいる。孝之の存在を頼りにしてくれる人がいる。 孝之の仕事を知り、きちんと見てくれる人たちがいる。 だから、その人たちの信頼にこたえることを、ただ今はそれだけを考えればいい。 孝之は目を瞑る。彩弓の脳挫傷は予断を許さない。小学生はこの病院の小児科でこれからのことを考え不安になっているだろう。 明日、月曜日には新しい相談が入っている。 立ち止まっている暇はない。だから今、点滴が終わるまで、それだけ。 孝之は目を閉じる。闇が間近に迫っていた。
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