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「起きて。風邪ひくよ」
少し離れた場所から声がする。頭が重い。うたた寝してしまったらしい。
「お布団で寝たら?」
彩弓に問われて衣装ケースの中の女の子のことを思い出した。
「ああ、ごめん、また行かなくちゃなんだ」
職場はいったん解散になったが、やらねばならないことがある。集合時間よりも前に戻るつもりでいた。
「どうしたの?」
「死なれちゃった」
彩弓は少し俯いて、それから控えめに低い声で訊いてくる。
「お茶でも飲む?」
「うん、あ、いいや。ありがとう」
彩弓が気遣ってくれるだけで胸が温かくなる。彩弓がいるところが帰る場所だと思う。
ならば、ちゃんと話さなくちゃいけない。この仕事についてから、親になることに不安を感じること、家庭の大切さ、そして反応しない自分のこと。
情けない自分のことも話さなくちゃならない。いかに彩弓の存在が大事なものであるかも。
でも、今は時間がない。でも言わなくちゃ。素っ気ない彩弓に昔のように笑ってもらうために。
「彩弓に甘えて仕事ばかりして、こんな時にまた甘えてごめんな」
「…どうしたの? 何も甘えてないわよ」
訝しげな視線。離れつつある心はつなぎとめられるのだろうか。
「いや…居てくれるだけでいいんだ。彩弓が居るここが俺の家で、帰る場所があると思うと頑張れる。彩弓が居ない家は家じゃない…」
彩弓は怒りの表情を露わにする。
「いつも放ったらかしなのに?」
孝之は立ち上がり、彩弓の前に立つ。彩弓が少し後ずさった。
「明日こそ一緒にお祝いしたかった。でも、多分帰れない。ごめん」
だけど、君が大切なんだ、ちゃんと二人の将来のことを話し合いたい。その言葉は彩弓の呟きにかき消された。
「…離婚して」
孝之は思考停止する。
「勝手なことばかり言わないで、離婚して。私を自由にして」
「彩弓」
思わず伸ばした孝之の手をかわした彩弓が睨みつけてきた。その憎悪すら混じった顔に孝之は怯む。
「もう嫌なの。行ってよ、早く大好きな仕事に行ってっ」
完全なる拒否、だった。彩弓からダイニングテーブルの卓上布巾が投げつけられる。勿論痛くない。痛くないけれど、彩弓に物を投げつけられるのは初めてだった。そのことがショックだった。
家を出て、児童相談所に戻る。当直の職員が孝之を見て苦笑いした。
「原島さん、ひどい顔ですよ。着替えがあるならこっちのシャワー室、使ってください」
「ありがとうございます」
確かにロッカーには着替えがある。彩弓がパッキングしてくれたものだ。
『離婚して。私を自由にして』
彩弓の声が頭に響く。シャワーを浴びたら仕事に戻る。だからひとまず流してしまおう。そして、もう一度考えようと思う。彩弓との未来を。
どうしたら彩弓の機嫌が直り、笑ってくれるのかを。
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