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孝之は簡単に医師から説明を受けた。頭を強打していること、これが最大の懸念事項で今後、急変の恐れがあること。肩の脱臼骨折はあるがこれは手術せずに保存療法でよいのではないかということ、そして全身の打撲。
入院の書類、治療の説明と今後の治療に関するいくつもの同意書、感染症の流行もあり、様々なものはレンタルすることになりその申込書、看護計画書、リハビリ計画書…。今必要なのかと思いながらもいくつもの書類にサインする。
その孝之を見かけた顔なじみの看護副主任の中井愛美が声をかけてくれた。
「原島さん! 昨日はどうも」
小学生は救急外来経由で今は小児科にいる。簡単にお互い労いの挨拶を交わした。
「書類ができたら…奥さまに面会されますか?」
中井のいつもの快活さが影をひそめる。何か言いたげな目に心がざわつく。
「はい。お願いします」
そんなに悪いのだろうか。もう目を覚ますことがない…?
離婚を切り出した途端に永遠の別れ…? 気持ちが揺れたまま落ち着かない。
「孝之くん!」
彩弓の父親、藤代義実だった。藤代は大学で一般教養の教授をしている。そのせいか若い看護師や医師が少しざわついた。
「ニュースを見たよ。昨日から君も大変だったのに、彩弓はなんで一人で山登りなんて…」
孝之の仕事を理解し、応援してくれる義父は尊敬できる人間だった。なので、離婚を切り出された孝之としては居たたまれない。
「仕事ばかりで彩弓を放ったらかしてしまいまして…」
「仕方ないだろう。彩弓だって新人の時は酷かった。家事を殆ど君に押し付けて。いや、今はその話じゃないな。その、彩弓から話があると言われていたんだ。だから私は孫ができるのかと…」
孫ごと無事なのか、そう問うている藤代に孝之は眩暈を覚えた。孫がいるなら誰の子どもだというのか。もう何年も彩弓とはレスになっている。
「孝之くん、大丈夫か」
「大丈夫です」
「あの、藤代先生、彩弓さんは妊娠されていませんよ」
中井がそっと口添えしてくれた。が、どこかに違和感を覚える。
「面会…、後にされますか?」
「いや、すぐに会いたい」
藤代が断言し、中井が申し訳なさそうな顔をする。その理由は面会して分かった。
何台ものベッドが並ぶ救急のICUのカーテンが閉まっていて、中は窺えない。その一つに中井が案内してくれた。
カーテンを開けると腫れた顔に酸素マスク、体中に機材が取り付けられ、左肩は異様に大きな白いものに覆われた彩弓が横たわっていた。
大きなタオルがかけられているが全裸のように見える。むき出しの鎖骨から下には無数の赤い皮下出血…所謂キスマーク。その生々しさがつい最近ついたものだと主張している。
少し覗いている太ももにまでそれは見えた。
もちろん、事故でついたと思われる傷も無数にあるのだが、白い彩弓の肌から浮き立つそれは妖艶な香りを持つバラの花のようにも思えた。
きっと何度も何度も吸われてできた彩弓の赤いバラ。
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