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誕生日、私は近くの山に来ていた。ハイキングルートが整備され初心者向きのこの山は登山客も多いので、一人歩きしても安心だ。
何回も来ている山だけど、一人で来たのは初めてだった。
山の中は道が舗装されているわけではない。凸凹しているし、ちょっとした段差もある。だから、歩くことに集中する。
そして、穏やかな道で私は考える。
孝之と知り合ったのは大学生の時。ボランティアで参加していた子ども食堂だった。リーダシップのある孝之の笑顔に惹かれた。
あの頃にいじめを受けていた中学生の相談に乗っていた。いろいろ話して、考えてきたけれど、結局その子は転校してしまった。
自分たちの無力に打ちのめされた。今思えば私たちの驕りに過ぎないけれど、あの頃はそこに思いも至らないほど、純粋に、その子の力になれると思っていた。特に、ショックを受けた孝之を放っておけなくてずっとそばにいて…付き合うことになった。
私が中学教師、孝之が児童相談所を志したのはその出来事も関係していたかもしれない。
小原が私を見つけてくれたのはある生徒の言葉だったという。
『私、原島先生が好き。だって話をよく聞いてくれるから』
新卒の未熟な教師のくせにこんなに懐かれて…と小原は嫉妬したという。
同じ学校にいたのは1年。そして3年前、また同じ学校で勤務することになった。孝之の異動と同じ頃だ。
『再会した君はなんだか痛々しくて、目が離せなくて。前のように屈託なく笑う顔が見たくて、そのうちに俺がその笑顔を守りたいと思うようになっていた』
この2年、小原に溺れ、小原なしには生きられなかった。
私はこんなに弱い女だったのだろうか。
私はこんな弱い女になりたかったんだろうか。
山頂でおにぎりを頬張る。リュックには離婚届。今朝、インターネットでダウンロードし、そしてサインした。でも家に置き去りにし難くて持参した。
いつもの山歩きは孝之と一緒だけど、今日は離婚届が相棒だ。
私は何が欲しかったんだろう。
孝之と得られなかったものは小原となら得られるのか。
そもそも罪深い私が何かを望むことが許されるのだろうか。
梅雨の合間の太陽は容赦ない日差しを投げつける。
人生の終わりに、最後に一緒にいたいのは誰だろう。
私は最期に誰の顔を見たい? 誰の手を握り、握られたい?
私は私に問う。私が幸せにしてあげたい人は誰?
「…愛している」
それは随分しっくりときた。
愛している、あなたを。
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