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「ふー……」  ノートを閉じ、大きく息を吐く。視線を遠くに移せば夕陽が水面に反射し、キラキラと光っているのが見える。 「一冊分でも結構なボリュームかも」  まるで追体験をしているかのようにのめり込んでしまい、気がつけば日は西の山に隠れようとしていた。  そろそろ帰って、夕食の支度を手伝わないと。梓が立ち上がろうとしたその時。 「話が違うじゃないですか!」  男の怒鳴り声が静寂を破った。紙袋を取り落としかけて、慌てて梓は持ち手を握りなおす。 「あそこは次の工場と連携し、新商品を製造する拠点となる。それで回復を図る予定だと、この間ご納得いただけたはずです!」  草を荒々しく踏みつける足音が徐々にこちらに迫っていた。 「一か月――いや、二週間でいい。あと少し待ってもらえませんか? 必ず、承諾をもぎ取ってきま……」  声は途中で力を失った。足音が止まる。携帯電話を耳に当てた佐山がこちらを見た。  うっ、気まずい……。  とりあえず軽く頭を下げておく。佐山は一言二言相手と言葉を交わすと、電話を切る。取り繕ったような笑みを梓の方へ向けた。 「すまない、邪魔をしたね」 「いえ、もう帰るところですから。……あ、肩になにかついてますよ」  梓が自分の左肩を手で示すと、佐山は手でスーツを払う。はらりと白い物が地面に落ちた。 「ああ、ありがとう。……夕顔か。どこかで付いたかな」  佐山はぼやきながら池の淵まで歩いて行った。  佐山といえば、いつも余裕あり気な表情をしていて、なにを考えているのか分からない。笑顔とお世辞の下にすべてを覆い隠した、梓もよく知る『大人』の姿をしていた。  あんなに声を荒げるとは穏やかじゃない。格好だって、いつもきっちりとしたスーツなのに、今日は皴が目立つ。しかも端々から漏れ聞こえてきた言葉からすると。 「……工場の計画、上手くいってないんですか」  背中に声をかける。ややあって返事が聞こえた。 「……そんなことはないよ。まあ、やっぱり皆に納得してもらうのは難しいけどね」  薄っぺらい言葉だ。梓は、やっぱり、と小さくつぶやいた。 「君も嬉しいんじゃないのかい? もしかしたら計画は中止になるかもしれないよ」  佐山は冗談めかして言った。しかし、彼の余裕の皮は剥がれかけている。焦ったような雰囲気が言葉の端々に滲み出ていた。  梓は首を横に振る。 「私は水上の人じゃありませんから。反対でも賛成でもどちらでもありません。まあ最近は少し愛着も沸いてきたんですけど……」  以前ならきっと、こんなこと気にもしなかったのだろう。ずっと考えていた疑問を口に出した。 「どうして水上なんですか。他にも似たような場所はいくらでもあるのに、どうしてそこまで水上にこだわるのか。なにか理由があるんですか?」 「理由か……」  佐山のつぶやきが黄昏の中に溶けていく。色を変えゆく空が、佐山の背中に薄闇のベールをかけた。  佐山が振り返る。薄闇の向こうで、にたりと口の端が持ち上がった。 「決まっているよ。この土地は無限の可能性に満ちているからだ」 「無限の可能性、って」 「ここは素晴らしい場所なんだよ。こんな小さな山奥の、誰にも見向きもされないような集落なのに名前が消えることもなく、今日まで存在し続けてきた。なぜだか分かるかい? すべて水龍神の加護を受けているからだ。数百年前の飢饉、幾度もあった天災、あらゆる外からの脅威を退け、ここまで存在しつづけている。どれも神に守られているからに他ならない」
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