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「佐山さん!」
梓は佐山に声をかけた。
しかし、佐山は二人の前を通り過ぎる時ですら、視線を向けることはなかった。
泥で靴が汚れることも厭わず、奥へ歩いていく。
張り巡らされた縄の手前で佐山は足を止めた。
なにをするでもなく、雨に打たれたまま立ち尽くしていた。
羽鳥が眉をひそめる。梓も首をひねった。
その時、視界に光が映った。佐山の右手に見えたあれは――。
羽鳥が駆けだす。
佐山が右手を大きく振り上げる。
その一瞬はスローモーションのように鮮明に、梓の目に焼き付いた。
ナイフが振り下ろされた。
「やめろ――っ!?」
半分に断ち切られた縄。先端が力なく地面に触れた。
「あんた、これがどういうものか知っているだろう! なぜこんなことをした!」
勢いよく羽鳥は佐山に掴みかかる。しかし、伸ばした手は迷うように宙で止まる。
どうしたのかと、梓も視線を佐山へと移す。
そこにあったのは『無』。もしくは『虚』。
一切の感情を失った目は、作り物のように黒々としていた。
「佐山、さん……?」
あの日、狂気に触れたときに感じた恐怖。
それを上回るものが梓の全身を駆け抜けた。
佐山はナイフを投げ捨てると、羽鳥を突き飛ばした。
「っ!」
バランスを崩し、羽鳥が倒れる。佐山は舞場の外へ向かって駆けだした。
「待って!」
止めないと。梓はとっさに佐山の左腕を掴んだ。
しかし、振り払われ地面へと投げ出される。強く打った背中に鈍い痛みが走った。
彼のどこにそんな力が隠されていたのか。
見た目からは想像できないような、強い力だった。
このままじゃ逃げられる――。
梓が唇を噛んだその時、人影が佐山の前に立ちふさがった。
「佐山くん、止まりなさい」
「父さん……」
昇はいつものように穏やかな笑みを浮かべ、梓と羽鳥に視線を向けた。
「二人とも大丈夫かい?」
「は、はい、なんとか」
それは良かった。昇はすっと笑みを消すと、眼鏡を一度押し上げる。別人のような鋭い視線で佐山を見据えた。
「きっと君にも事情があるんだろう。でもまずは、正気に戻るところから始めないとかな」
佐山は昇に肉薄すると、固めた拳を振りかぶった。
「父さん!」
羽鳥が叫ぶ。
しかし、昇は拳を受け流した。そのまま腕を掴み、腰を落とす。
「はぁっ!」
気合の声とともに、佐山を背負い投げた。
佐山の体が地面に転がった。動く気配はない。
「気を失ったようだね」
ふう、と昇は息を吐く。地面に垂れた縄と、空の様子を見ると険しい表情を浮かべた。
「逆鱗を守る結界が解けたか。羽鳥、なにが起きるのかは分かるね?」
「水龍神が穢れにさらされる……」
雨は激しさを増していた。
雷が空を割り、轟音を響かせる。
その様はまるで龍がもがき苦しんでいるかのようだった。
「このままだと、池や川が氾濫する」
昇がつぶやく。もう梓にも予想がついた。
山の上にある池が氾濫すると、濁流は下へと流れる。
長い雨で山肌はぬかるみ、崩れ落ちる。麓の川は氾濫し、田畑や家を押し流す。
そうすれば水上は――。
「父さん、はやく祠の結界を直さないと」
羽鳥は切れた縄の元に向かおうとした。しかし。
「――いや」
昇は首を横に振る。そして視線を山の方へと向けた。
その先には、水龍神の池がある。
「ここは僕が引き受けるよ」
「でも一人じゃ大変ですよ。佐山さんだって、いつ目を覚ますか分からないし」
梓が言うと、昇は大丈夫だと笑った。
「佐山くんならもう大丈夫だ。彼はおそらく、操られていただけだからね」
その言葉で、はっと気がついた。
「確かに、佐山さんは水上に執着していた。けど、それは水龍神の加護を利用するためで、こんな風に穢れにさらして、水上に害を為すことが目的じゃない」
「この祠がどういうものかは水上の人間なら誰でも知ってる。正気だったらこんなことは絶対にしない、ということか」
梓と羽鳥の言葉に昇は頷いた。
「おそらく佐山くんを操った人物は、水龍神の池にいるはずだ。行って、その人を止める――いや、救うんだ。この地と、水龍神を守るために」
羽鳥と視線が交わる。
「行くぞ」
一歩先に踏み出した。彼はもう決めている。
梓はいつも自分をどこか信じられていなかった。いくら優しい言葉をかけられようと、常につきまとう不安。
本当にこの力を使っていいのだろうか?
その答えが今、見えた。
乗り越えていくしかない。その不安を吹き飛ばすくらいにあがくしかない。だって私はまだ、未熟なのだから。
全部受け止めて、がむしゃらに前に進むだけだ。本当に私がなにかを守りたいのなら――。
「……うん」
梓はうなずくと、羽鳥の横に並んだ。
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