コイの芽生え

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コイの芽生え

「さーさん、それはコイだよ。コイの芽生えだよ」 「へ? コイ?」  長期連休明けのどこか気だるい空気が漂う、朝の教室の光の中に私の間抜けな声が広がって静かに消えていく。  問いかけたのは私、笹原菜緒。  答えたのは親友、香川多恵。  そして、聞きなれない言葉に池の鯉を連想して(そんなわけないよね?)と尋ねる私。  多恵さんは眼鏡を中指でくいっと上げながら「……まさか」と私に続けた。 「八頭身で、頭が鯉で、「ッハーイッ☆」って言いながら、突き上げた右コークスクリューで、コンクリートをものともせずに生えてくる謎の生物の正体を、さーさんは欠片もご存じないと?」 「……まあ、そうだね。長期連休で休みすぎた私の脳細胞がついにおかしくなったかと思って聞いてみたんだけど、もしかして有名だったりする?」  改めて言葉にされると脳が認識を拒否する生物なんだけど。  さも当たり前のように言われると尚更わけが分からない。なんでこんな意味不明な説明を笑わずに言えるんだい、多恵さんよ。  すると、多恵さんはぐっと力を溜めてから語気を強めて言った。 「さーさんのお馬鹿! 常識だよ! 知らない方がおかしいよ! 義務教育の敗北だよ!」 「ちょっ、そこまでの話なのっ!? 恥ずかしくなってきたんだけど! 何の教科書のどのあたりに載ってるか教えてくれる?」  半信半疑な私が、嘘をつけない証拠の提示を多恵さんに求めると、多恵さんは流れる動作で通学カバンから見慣れた教科書を取り出した。 「もう! 道徳の教科書のここ! あと、保健体育の教科書にも載ってるんだから!」  ぱらぱらと手慣れた手つきで該当ページを指さす多恵さん。私はそこに目を向けてから、呟くように声を発した。 「……ほんまや」 「なんで関西弁なん?」  ……君もやで?  多恵さんの突っ込み兼ボケが冴えわたる。自慢の友ながら会話の懐が広い。  そのページにはこう書いてあった。 『昨今の少子高齢化に一石を投じるために、今まで存在を知られていなかった高次元の存在、恋の女神様の御意向により、この世界のルールが書き換わったのは記憶に新しい』 『そのルールとは、とある特殊条件下における『コイマン』の芽生えである』 「――コイマン? 『ありがとう、麦芽糖』の?」  私の頭の中で一人の男がサイドステップを踏んだ。 「それは芸人のゴイマン。どうも最初に出会った人がコイマンと呼んだところから定着してしまったみたいね」 「んー、分からないでもないけど……、微妙。私なら、変鯉って名づけるかな?」 「変態、じゃなくてこいだから変鯉、悪くないセンスだね、さーさん」  うーん、秒で分かるあたり、多恵さんも同じことを考えたことがあるんだろうな。 「ありがとう。ところで、とある特殊条件ってなんなの多恵さん」 「それは簡単、コイに恋することだよ。この場合のコイってのはなんでもあり 。恋でも、故意でも、鯉でもなんでも、とにかく特定の人以外に恋愛感情を向けた時に、コイマンは芽生えるの」  ふむふむ、要は何らかのコイと恋が重なるとダメと。 「ちなみに関係ないけど……芽生えるって謎の語彙は一体何なの?」 「女神様曰く、恋とは芽生えるものよ、とのことよ」 「適当かよ、……ちなみにコイマンが現れ、――芽生える目的は?」  言ってる最中になぜか背筋に寒気を感じて、私は言い直しつつ多恵さんに尋ねる。 「歪な恋への警告ね。コイマンは特に危害は加えてこないけど、現状が改善されない限り、無数に増え続け、芽生え方のバリエーションや語彙力が上がっていくから、普通の感性の持ち主であれば3日と持たないわね」 「え? それはつまり、「ッハーイッ☆」以外にもコイマンは話すと?」 「そうね。「ァリガトゥゴザィマシター↑」とか、「ラッシャイマセー↑」とか、意識の高いラーメン屋の店員みたいなテンションの高さで。いついかなる環境下でも遅滞なく芽生えてくるわ」 「……、…………ぶふっ、……助けてください、多恵さん先生」  頭の中で大量のコイマンが妙に滑らかな動きでラーメンを提供してくる姿を想像し、私はげんなりしながら多恵さんに助けを求めた。  いや無理。100歩譲って笑ってもいい場面なら良いけど、授業中にそれが起きたら耐えられる自信が無い。急に笑い出すおかしな人の烙印を押されてしまう。 「よろしい。とは言っても簡単な話なんだけどね。諦めればそこで試合終了なんですよ、さーさん」 「……諦める、って何を?」 「もちろん、二つあるうちのどっちかのコイだよ。さて、さーさん、長い話になるだろうから、帰りにファミレスでドリンクバーでも飲もうか?」 「奢らせていただきます、多恵さん先生」 「成功報酬で良いよ、さーさん」  そんなやり取りの後に一日の授業を終え、私と多恵さんがファミレスに入りドリンクバーを注文し、カフェオレを口に含むその瞬間までに。  10回以上芽生えたコイマンに、100%の確率で噴き出した私はすっかり危機感を募らせていたのだった。  やだ、私のお笑い体制無さすぎ。  
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