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「千沙さん、離婚したんですか?」 「うん。離婚はとっくにしていたんだけどね。今日から旧姓名乗るからよろしく」  後輩の黒川修平が驚いた顔で私を見ていた。一応オシドリ夫婦と言われていただけに夫との離婚は寝耳に水といったところなのだろう。……あ、元夫だった。ごたごたして離婚してからもう二カ月も過ぎてしまっていた。会社のもろもろの手続きと部長への報告はすぐにしたけれど、仕事の関係で旧姓に戻すのはちゃんと準備が整ってから公表することにしたのだ。途中で担当者の名前が変わるなんて、いちいちプライベートを持ち込みたくなかった。まあ、夫の社内不倫がばれて恥ずかしい思いをするのを先延ばしにしたかったというのが本音かもしれない。  押し黙った黒川に何と声をかけていいかわからない。黒川は元夫孝也ぐるみで仲良くしていた後輩だ。素知らぬ顔で仕事を回してくる先輩が実は家庭は崩壊していたなんて恥ずかしいし、情けない。こんなことなら仕事場での名前は旧姓を貫くべきだった。過去の自分を叱ってやりたいが、あの時は結婚できて多少なりとも私も浮かれていたのだ。社内結婚というのはこういう時に気まずい。  孝也とは元々他部署だったから、顔を合わすこともない。しかもあちらさんが派遣の女の子に手を出して不倫したのだから、女の子は派遣の打ち切り、孝也は地方に飛ばされるらしい。それでも、別れ際の勝ち誇った二人の顔が忘れられなかった。  ごめん、千沙。ごめん。でも俺、どうしても諦めきれないんだ  頭を下げる孝也と同じように頭をさげながら口元が笑っている細井凛音。どうしても諦めきれなかったのなら、私と離婚してから他の女性とトライして欲しかった。孝也が諦めきれなかったもの。それは自分の子どもだ。結婚して五年、なかなか出来ないので二人で病院に検査しに行った。結果は孝也は問題なし。私が妊娠しにくい体だということだった。可能性はある。しかし自然妊娠は難しいだろうと医者に言われた。  あの時、病院からどうやって家に帰ったか覚えていない。孝也が子どもを欲しがっていたことも知っていたし、私も欲しいと願っていた。不妊治療を始めようと話し合って数カ月、私の元に知らないアカウントのメッセージが届いた。  孝也さんと真剣にお付き合いしています。離婚してください。  メッセージの相手は細井凛音からだった。細井は孝也の部署に今年から入った契約社員で二十二歳。孝也は『一晩の過ちだった、君と離婚したくない』と言ったが、その後、子供が出来たことが判明した。すると『責任を取りたいから離婚して欲しい』とあっさり手のひらを返された。  子どものことは私に負い目がある。それを盾に取られると離婚以外に選択肢はなかった。最後に義両親に挨拶に行った時も、義母からかけられた言葉は『悪いわね、千沙さん。でも、しかたないわね』だった。私は財産分与とわずかな慰謝料を貰って離婚した。  生活するために仕事は辞められないと思ったけれど、私への腫れ物を扱うような周りの態度は思っていた以上に辛い環境だ。はあ、やっぱり辞めてしまおうかな。もう少し慰謝料を貰っておけばよかった。  でもこれから子育てにもお金がかかるから許してやってくれ、と義両親に頭を下げられてしまった。なけなしのプライドで了承してさっさと離婚したけれど、本当は羨ましくて妬ましくてたまらない。  私だって子どもが欲しかった。  孝也は協力してくれるって言ったのに。  裏切るなんてひどい。 「それで千沙さんの様子がおかしかったんですね、家にも呼んでくれなくなるし……。最近特に酷い顔していますよ……僕で良ければ話を聞きますよ。ほら、誰かに吐き出せば少しは楽になるって言いますし」  その声で我に返る。黒川は仕事では頼りになるし、プライベートでは気が利くしで後輩としても友達としてもパーフェクトな人間だ。教育係だった孝也の方が先に気に入った後輩だが、亭主関白を気取りたい孝也をたまに窘めてくれる有難い存在だった。黒川は器用なのか部署を転々と回っていた。営業企画に配属されてからは異動もなく楽しく一緒に仕事をしていて、私に懐いてくれていた。今では立派な私びいきの後輩だった。 「黒川……お前、いいやつだな」 「今頃気づいたんですか?」 「いや、日ごろから周りをよく見て気の利く男だと認めてるよ」 「ありがとうございます。千沙さんに褒められると嬉しいです」  黒川は私を『千沙さん』と呼ぶ。昨日まで私は孝也と同じ鹿島を名乗っていたのでありがたい。もう旧姓の『寺田』に戻ったのだから『寺田さん』でもいいのだけど、それも今更だ。彼は私より四つ年下の二十六歳。童顔で実年齢より少し若く見える。羨ましいほどのつるつる美肌にくりくりとした大きな目。なかなかの可愛い系イケメンである。  弟がいたら、こんな感じかな……。 「今日は金曜日だよ。とことん付き合う覚悟はある? 吉沢と神部も呼ぼう」  見知った名を出すと黒川が苦笑した。二人は黒川ファンの女の子たちで営業事務をしている。黒川を呑みに誘うときはいつもセットで誘うことにしている。ライバル同士だが、仲がよくて楽しい子たちだ。 「じゃあ、二人には僕が声をかけておきます。いつもの居酒屋に予約入れますんで、仕事が終わったら行きましょう。これから三矢商会に行くんですよね? ホワイトボードに直帰って書いときますから現地集合でお願いします」 「ありがと」  近年誘われても断る若者が多い中、この三人は私の誘いに乗ってくれる貴重な人材である。あれ? いつも誘われる方だったかな? まあいいか。会計を半分持つのが定番だからそれが目当てだったのだろう。  沈み切った気持ちが少し晴れる気がした。一人でいると嫌でも色々と考えてしまうから、黒川が誘ってくれてよかった。うん。いい後輩を持ってよかった。  それから商談が終わり、取引先から居酒屋へと向かうと、そこには黒川だけが座っていた。
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