『サクリファイス』(アンドレイ・タルコフスキー)の場合

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『サクリファイス』(アンドレイ・タルコフスキー)の場合

大統領執務室の机に向かった姿勢のまま、 ふと、大統領は目を覚ました。 ものの数分とは思うが、うっかり、 眠ってしまっていたらしい。 秘書に「しばらくの間、誰も入れるな」と命じて、 溜まっていた書類に目を通していたのだが、 疲れてきているのか──うたたねとは自分らしくもない。 時計を見ると、午後2時だった。 次の会議まで、まだ時間はあるな。 そう思った時だった。 突然、執務室のドアがノックもなしに開き、 二人の小心そうな中年男が、 おどおどと、入ってきた。 「なんだお前らは?」 大統領は鋭い目で二人をにらみつけた。 秘書に言いつけていたのに、なんたることだ! しかし── ふと思いなおす── どうもクレムリンにはそもそも場違いな二人組だ。 一人は郵便帽を気弱げに両手でつかみ、 もう一人の白髪の中年男は、 半泣きの目で、こちらをウルウルと見つめている。 「なんだお前らは?」 大統領は、もう一度訊いた。 「郵便夫でございます、大統領閣下」 一人が言った。 「はぁ?」 「郵便夫です──オットーと呼んでください。 そしてこちが──アレクサンデル様です。 よい方ですよ。本当に。 役者をやっておられたことがあって。 特に『白痴』のムイシュキン公爵役では喝采を浴びたものです」 「なんの話をしているのだ。お前ら二人だけか?」 「もう一人、ここにはおりませんが、 マリヤからも言伝を授かっております」 オットーという郵便夫は静かに続ける。 「マリヤ?」 「はい。マリヤは、魔女です」 「魔女?」 「はい。ただし、よい魔女です。 大統領閣下。ロシアにはそういう力を もったモノが、民間にはまだおりますです。 マリヤは、よい魔女なのです」 「お前どこから入ってきた? 何をしにきたのだ?」 「大統領閣下に、これを渡そうと」 郵便夫がそういうと、 役者くずれの男が、 脇にかかえていた大きな包みを、 ビリビリと破いた。 中からは、古ぼけた ヨーロッパの地図が出てきた。 「17世紀のヨーロッパの地図です。美しいと思いませんか?」 「な、、、何が言いたいのだ?」 「この地図は真実とはかけ離れております。 まるで実際とあっていない。火星のようだ。 でも、ここにも、暮らしがありました。 名もない庶民たちの暮らしが──。 これを大統領閣下に、プレゼントしたく」 「いらん」 「いえいえ!受け取ってください! たしかに、我々には高価なものです。 でも、大統領閣下、 贈・物・と・は・、・高・価・な・も・の・で・な・け・れ・ば・意・味・が・な・い・、・ そう思いませんか?」 「なんの話をしているのかね君は」 そのとき、今まで黙っていた、 アレクサンドルという白髪の中年男が やおら前に進み出て、言った。 「大統領閣下」 「こ、、、今度はなんだ?」 「この恐ろしい時代に、どうか私たちをお救いください! たくさんの子供たち、母親たち、友人たちを滅ぼさないでください! どうか、この世を、すべてを昔のままに! このひどい、嘔吐のするような恐怖を、 なくしてください! なぜなら、これは、 勝者も敗者も残らない、 町も村も、草も木も、 井戸の水も空の小鳥も残らない戦争だからです。 この恐怖を、あなたが止めてくれるなら、 私も、相応の犠牲を、捧げましょう」 「・・・何をいっている。 いまさらこの戦争を停められるものか!」 郵便夫がアレクサンドルを引き継いで、口を開いた。 「あなたにはそれができます、大統領閣下。 この恐怖を世界から取り除いてください。 それはあなたにできる、私たち全員への 贈物です。そして、 贈・物・と・は・、・高・価・な・も・の・で・な・け・れ・ば・意・味・が・な・い・、・ そうでしょう?」 「いい加減にしろ!」 大統領は立ち上がり、 かつて柔道で鍛えた腕力で、 二人の首根っこをつかみあげ、 「でていけ!」 という声とともに、 ドアから執務室の外へ放り出した。 「まったく!どっから入ってきたのだ!」 イライラしながら、 大統領は机に向かって、座りなおした。 そのとき、すうっと、意識が遠くなった。 ***** ふと、大統領は目を覚ました。 時計を見ると、午後2時だった。 いったいどうなっているんだ?? そう思った時だった。 突然、執務室のドアがノックもなしに開き、 二人の小心そうな中年男が、 おどおどと、入ってきた。 あの郵便夫と、役者くずれだった。 大統領は、さとった。 きっと、こいつらのいう「よい魔女」のしわざなのか、 時間のループに、囚われたのだと。
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