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赤い鳥居の神社。
お稲荷の石像が奉ってある。ツンとすました鼻高、細くつりあがった目尻。一段高い台座にそびえたつ巨大な白い塊。
「こんなのがあるから、みんなおかしくなっちゃうのさ」
しいんと静かな森の中で、狐の子がつぶやいた。その声はよく響いた。月夜の晩に、銀色の毛皮がぬらりと光る。ペロリと紅い舌を出し、口元を舐める。
「ばかばかしい。あいつは人間の手先だ…だの、化け狐だぞ…だの」
ひとりぼっち。狐の子は、人間が大嫌いだった。彼らはずかずかと入りこむ。平和な森の中という領域に。稲荷の像を建てて、神妙に手を合わせて拝む。いつか忘れ去って、我が物顔でひらひらと衣を見せびらかしていた住職でさえ、いつの間にやら姿を消して、遥かな遠い都会を闊歩する。そんなわけの分からない悪意が恨めしい。彼らは一度でも考えただろうか。神社がどれほど迷惑かということを。森の動物たちから仲間はずれにされる、すべての狐の子のくやしさを。
「ふん。もういいもんね、オレは見返してやるよ。狐の素晴らしさを証明して、尊敬させて、いつかみんなを跪かせてやるのさ」
うっとりと。両の前足を祈るように組み合わせ、後足で立ち上がる。ゆらり、妖しく美しく。幼い銀狐がニイッと笑う。ざわりざわりと杉の緑が風に舞い、草いきれが香った。
「おぅい。そこの、化け狐———」
瞬間。狐の子は跳躍してした。
「———からいつかボクを救ってくれた、小狐のリュウ=エン殿?」
夜の空気が、一瞬で冷たく凍りついた。
研ぎ澄まされた刃の爪。子狐の、透明な鋭い剣先のように薄い爪が、呼びかけた声の主の喉元ギリギリで、ひたりと止まっていた。ややもすれば血が滲み出す際どいところ。その切っ先をあてられた喉元は、雪のように白いふわふわの毛、純真なうつくしさをもつ水鳥。その名も…サギのホウドゥ。
「おぉう!危っぶないねぇ、きみ」
ホウドゥは、ニヤリと笑った。ズバアッと羽根を広げて大袈裟に怯えるふりをして見せる。
「……何の用だ」
子狐は、低く喉を鳴らす。こいつ、ホウドゥは——いや、サギという種族そもそもが、信用できない。これは随分前に流れたただの森の噂であるのだが、案外当たっているらしい。『サギは仲間を騙す。”詐欺“ という言葉は、”サギ“ という鳥の種族の名が由来なのだ』と。まことしやかに囁かれた影の噂。
はじめはてんで信じていなかったリュウも、このホウドゥに出会ってから考えを変えた。このように軽薄で、本心が読めず、人を馬鹿にした態度をとる生き物を、リュウは見たことがなかった。
「えぇー、理由がいるのかい? 恩義がある相手を見つけて、通りすがりの挨拶をする。そんなごくごく当たり前のことをして、その御出迎えは悲しいよぅ」
ニヤニヤ笑いながら、じりじりと下がってゆくホウドゥ。リュウは、いっとう強く睨んだ。苦々しげに、低く唸る。
「オレは一人でいたかったんだ。邪魔をされて不快の絶頂だ。お前なんて大嫌いだ」
闇の中に、純白の美しく光るホウドゥの陰。月を背景に、黒々と浮かび上がった。すでに彼の笑いは消えていた。甘い森の匂いが、神社の境内へ流れ込む。
「…ふうん。どうやらボクは、きみを誤解していたようだねぇ。…恐ろしいヤクザ狐から助けてもらったあのとき、心から尊敬したというのに。まったく。残念だよ」
「おまえに何がわかる」
「さてね」
ホウドゥは、冷笑した。そして、おもむろに羽根の間から鶯色の巾着を取り出してみせた。小さな袋。木の実三粒でいっぱいになりそうな、本当に小さな布袋。
はたして。
ホウドゥは、黒い胡麻のようなモノを取り出した。振りかけのように巾着を逆さにして、二十粒ほど白い羽根の上に器用にのせる。ずいと、それを突き出してリュウに見せた。
「これ、何の植物の種だと思う?」
リュウはぎゅっと眉根を寄せた。まるで見たことのない種だった。ホウドゥは、しばらく見せると、さっと隠して、薄笑い。
「もしやわからない? はは…馬鹿め———」
「っ!?コイツっ?」
「———馬鹿めろん、っていうんだよ。…あれ、どうかしたのかい?」
「………………いいや何でも」
リュウは歯噛みを必死にこらえた。ホウドゥは、そんなリュウを面白そうに見下ろしながら、ばさばさと羽根をふった。“馬鹿めろん” の種が、境内の土にふり撒かれた。白い砂の敷かれなかった、山奥の土の剥き出しになった神社の敷地に。湿った雑草が生い茂る中へ。
「……こんな適当なやり方で、本当に育つのか?」
「この世の法則さ。馬鹿な奴はしぶといんだよ。メロンだって一緒だね」
わけ知り顔。澄ましているホウドゥに、リュウは信じるものかと眼光をぎらつかせた。張り詰めた静けさに、虫のかさかさはいまわる音が響く。ざわざわりと、森の葉っぱが踊る音が鳴る。
不思議な睨み合いが続いた。薄く笑い続けるサギと、今にも噛み付きそうな狐の子。…ふっと、ホウドゥがため息をついた。
「なんかさ。恥ずかしくなったよ、ボク」
なんの前触れもなかった。リュウは混乱して眼を細めた。銀色のひげが、きゅっと寄った。
ホウドゥは、ゆったりと伸びをした。ふわあっと大欠伸を漏らす。そしてすうっと目を細めた。
「…ボクはね。たった今。自分自身の醜さを、眼前に突きつけられた気がしちゃったんだよね」
言って、くるりと後ろを向く。バサリと、絹織物のようになめらかな羽根を、大きく広げる。
”おい、それはどういうことだ“
出掛かった言葉が、リュウの喉で引っかかる。結局、何も言えず。ホウドゥは羽ばたいて飛びさってしまった。
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