サギ草の夜〜狐と鷺

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「やあ、こんばんは」 「………」 月が照る。冷たい風が吹きつける。梅の花が咲き始める二月も終わりごろ、ホウドゥは再び神社にやってきた。あの日から、毎夜神社を訪ねずにはいられなかったリュウの心を、全てお見通しであるかのごとく。さも当たり前に。自然に。 「今日はねぇ、ボクは謝りに来たんだよ」 涼しい夜の風。ホウドゥの声も、どこか涼しげな鈴の響きがあった。 「……は?…謝る?」 「そう。前にあった時、きみをわざとおちょくったことさ」 ホウドゥは誠実にまっすぐな目を向けた。リュウは、呆気に取られてぽかんと口を開けた。リュウの悪意の仮面が剥がれた。燻る青い炎のような、近寄りがたい鋭い睨みの表情が崩れさったのだ。ほんの一瞬で。幼い狐の子の、本来の純真な表情がごく自然に現れた。 「おちょくった…って、おまえ。…そういうことを平然とやって退けて気にしない、元々そういう奴じゃないか。どうしてきゅうに…そう、今になって謝る気になったんだよ?」 やれやれと、頭をふる。ホウドゥは、ぺたんと地べたに腰を下ろした。美しい汚れなき白い羽根に、泥がつくのも気にしない。おもむろに首を曲げて目を合わせると、リュウに語りかけた。 「…ねえ。 “馬鹿めろん” は芽を出したかい?」 「あぁ。二本だけど…すくすく育ってる」 リュウは、向こうで雑草にまぎれている二本の芽を指し示した。緑色のそれは、着実に根を張って天上へと葉を伸ばしている。…もちろん、メロンではない。西瓜やカボチャ、メロンなど、瓜科の植物は横へつるを這わせて育つものだ。リュウはとっくに、ホウドゥの嘘を見抜いていた。わかっていながら、律儀に世話は続けていた。種の正体は何なのか。彼が持ってきた置き土産から、一体どんな植物が育つのか。それは孤独な狐の子にとって、好奇心をくすぐる想像だった。 ホウドゥは、くすりと笑って、ため息をついた。纏う雰囲気は、以前よりいくぶんかまろやかなようだった。ホウドゥは、リュウへ笑いかけながら口を開く。 「あれはねぇ、本当はサギ草っていうんだ。夏になると、綺麗な白い花が咲く」 「………」 ひらり。ひらり。二人の眼前を、ふいに二羽の蝶が通りすぎた。くるり、くるりと互いの位置を入れ替えながら、舞い踊るように飛んでゆく。小さな白い蝶と、青い蝶。夜明け前の闇空と雪の照り返りのような、不思議な色の相性が見る者を惹きつけた。 …刹那。 リュウの頭の中に、一つの妄想が広がった。無限の荒野。そこに朝日がのぼる。赤い太陽が顔を出すと同時に、大地が明るく染まる。と同時に、荒野は白い花で覆われる。地平の果てまで、雪の綿のように白い花。それはサギ草だった。ふわふわと、ホウドゥの羽根のように艶やかに輝く。まことの白。 青い空は、雲ひとつない。暗黒宇宙の深淵を、上手に覆い包んでその存在を気づかせない、澄み切った青。 どこまでも。どこまでも。 「ボクはきみを嫌いになれない」 リュウの妄想の世界に、ホウドゥの飄然とした声が降ってきた。微かな含み笑いの混ざる、軽薄にも思える声。しかし今となっては。それはどこか、陽気でユーモラスな気安さでも、あるように思えるのだった。 「……オレも、きみが嫌いじゃないさ」 ボソリと呟く。言った瞬間、リュウは耳まで真っ赤に染まった。ホウドゥはリュウの顔を見もしなかった。さも当然とばかりに、うんうんと頷いた。 「嫌いになれるわけがない。ボクらは似た者同士なんだからね」 ゆったりと息を吐く。ホウドゥは月を見上げながら、優雅に笑った。 「“サギは仲間を騙す“ って噂。きみも知ってるだろう?」 「……あぁ」 「あれは本当に、根も歯もないものなのさ。“詐欺“っていう言葉がたまたま僕らの“サギ“って名と同じだったのを、駄洒落好きの山鳩坊やが面白がって流した噂なんだよ」 どこからか。梅の香りが流れてきた。リュウは無意識に鼻を蠢かしながら、それに気づかないほどにホウドゥの話に聞き入っていた。 「だけどみんなが僕らを“詐欺師“なんて呼ぶようになるとさ、どっかで不貞腐れちゃうよね。ただ面白がってるだけだって知ってるんだよ。でもなぜかしらん悪意のない言葉の暴力を向けられてさ、だんだん周りが全員馬鹿に見えて。それに傷付けられてる自分自身が一番、嫌いになるし、悔しくて」 ホウドゥは、だんだん興奮して紅潮してくるように見えた。白く美しい顔が、ほんのりピンク色に染まる。一気にしゃべって、眼がカッと見開かれていた。くるりと、血走ったサギの眼が、リュウの黒い瞳を捉えた。リュウは思わずコヒュッと息を吸った。 「どうだい? きみもそうなんだろ? “化け狐“ なんて呼ばれて、ムカムカァってなって、だけどやり場のない気持ちを、ちょうどそこにいたボクにぶっつけた。何の生産性もないとわかっていてやってしまう。きみの失礼な態度は、ただの八つ当たり。そうだろう?」 はあはあと息を切らすホウドゥに、リュウは怯えたような目を向けた。 「オレは……」 リュウの言葉はそこでつっかえた。ごくりと喉を鳴らす音が、夜の闇に響く。身を切るような冷たさが、狐の子の全身を支配していた。 「…オレは、そうだけど。でも、同時にきみを……誤解してたんだ」 やっとそれだけ言って。リュウはヒュッと身を縮めた。もう、高慢で陰険な狐はどこにもいなかった。そこには、ただ弱く、恥ずかしさと後悔に打ちひしがれる、一匹の狐がいるだけだった。 「いいや。誤解してたんじゃない。ボクが誤解させたんだ」 限りなく明瞭に。まっすぐな声が、リュウの胸を貫いた。驚いて顔を上げたリュウに、ホウドゥの力強い立姿が語りかけた。 「だから気に病むなよ、同志。一緒に頑張ろう」 リュウの手をとって、立ち上がらせる。温かな鳥の体温が、じんわりと沁み込むようだった。 リュウはもう一度、この誇り高き鳥を仰いだ。彼の背後には月がかかっている。ちょうど後光のように、大輪の白い円環がホウドゥを照らす。 「あぁ。オレはリュウ=エン。狐の言葉で “思いやりの星の元に生まれた子” という意味だ。…今日から、この名に恥じぬ狐になる」 「そうそう、その調子だ」 二人の足元には、サギ草が芽を出している。八月、森に蝉が鳴き出す頃には。大きく羽根を広げたサギの雛そっくりの、美しい花を咲かせることだろう。 その少しばかり離れた場所では、白と青の蝶が戯れている。 赤い鳥居の神社。 お稲荷の石像が奉ってある。ツンとすました鼻高、細くつりあがった目尻。一段高い台座にそびえたつ巨大な白い塊。 …その足元を。小さな銀狐とサギの子が手を繋いで駆け抜けていった。
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