BL漫画家がゴミ捨て場でサキュバスのお姉さんを拾ったら

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「葉緑体(ようりょくたい)先生!今回の新作も重版かかりまくっていますよ!インターネットでBL界に突如生え出てきた大樹って言われています!」 「ダサいですね」  興奮した様子で語るのは、少女漫画の部署からBL、男同士の恋愛、(ボーイズラブ)が好きすぎて移動してきた美人編集、早川佐紀(はやかわさき)編集だ。 「で、次の読み切りどうします~?」  早川さんは、キャラメルのような髪の毛を耳にかけ、先ほどまでのふわふわした雰囲気を切り捨て、必殺仕事人のように険しい表情になった。 「まだあんまり決めていないけど今度は、ヤンデレエクソシスト神父×臆病悪魔にしようかと」 葉木村優(やぎぬまゆう)私は、早川さんの質問に知恵袋のように脳内で高速で構築されていく話を語りながらペンを走らせていく。 「神しか信じることができなくなった神父に、悪魔も人間も神も恐ろしく、神父しか信じられなくなった悪魔」 「共依存ものですか!」  早川さんは、ピンクのセーターから零れそうな胸をテーブルより前に突き出して、興奮気味に鼻を膨らませている。 「そうですね」  私は、メモを書いていた時ずれた眼鏡の位置を人差し指で直しながら、表情筋を動かすことなく頷いた。こんな感じでいつもネタを詰めていく。 白熱した話し合いが落ち着いてきたタイミングで、早川さんは私に小さな包みを差し出した。 「あ、そういえば先生。最近乾燥しがちなのでよかったら」 「何ですかこれ」 「ハンドクリームです、凄くいい匂いなんですよ」  金木製の香りの、TVで見たことのあるブランドのハンドクリームだった。女優さんがつけているような確か8000円はする……、いやいやいや。 「もらえませんよ、高いですよね?」 「いえいえ!いつも先生にはお世話になっているので!使ってください!」 「えっ、えっ」 「それでは先生、よろしくお願いいたしますね」 「あっ」  早川さんは、打ち合わせが終わるといつものように自分と私の会計を済ませて店を出ていく。 「……」  いつの間にか、周りの人の声が、雨だ、雨降ってきた、に変わった。大きなガラスの向こうでは、花が咲くように人々が傘をさしていた。私は無意識にバックの中を探って折り畳みがあったか確認する。 「あ」  指の間に血がたまっていた。考え事をしている間にささくれをむきすぎたらしい。ばんそうこうをはって、さっきもらったハンドクリームを取り出した。 「……」  この手を見てハンドクリームを買ってくれたんだろうな。本当に私には勿体ないくらいの編集さんだ。使わないのが逆に勿体ない気がして、私はひやりとした薄黄色のハンドクリームを手に塗り付けた。 「いい匂い」 表情を変えずに立ち上がると、私は店員に会釈をして足早に店を後にした。  このカフェから私のマンションまでは歩いて5分ほどだ。早川は打ち合わせのためにわざわざ私の近所まで編集部から電車で50分ほどかかるここまで足を運んでくれる。  本当は面倒くさいと思っているんだろうな。私はこの鬱屈した天気のような自分の性格に目を伏せた。地面に雨がしみ込んでいくように、彼女の気遣いや優しさを受け入れて、素直に感謝できればよかったが、私はこの雨をはじく傘のように、優しくされると何か裏があるんじゃないかと疑い、気遣いを嘘だと思ってしまう。  そんな自分が心底嫌いで、そんな自分に腹も立たなくなった。  もうマンションが見えてきた。少し足早になった私は、目線の先である路地をとらえていた。いつも朝ごみを出すときに通る路地だ。ゴミ捨て場の上に、裸の女性が倒れていた、ように見えた。  気のせいだろう、なんでこんな雨の中。ゴミ捨て場のゴミの上に裸の女性が倒れているんだ。ゴミの日は明日。それなのに、うちのマンションは前日には普通にゴミ袋が5,6つ捨ててある。朝早くから捨てるのが面倒なのだろう、それにしても今は夕方の17時。もう少し日が落ちてから捨てにこればいいのに、なんて漫画家の私には社会人の忙しさがわからないから、どうしても今出さないといけなかったりするのだろう。  気のせいだろう。  ダッチワイフをゴミ捨て場に、こんな昼間に捨てるなんて。気のせいだろう。  漫画家というのは好奇心がある程度強い人間がなる職業だとは思っている。この時の私は好奇心と、恐怖。裸の女性が捨ててあった、ではなく、“倒れていた”ように見えたからだ。ゴミの袋の上に仰向けに、捨てられていたのではなく、 「……うっ」 「大丈夫ですか?」  倒れていた。路地の隙間から起き上がる髪の長い半裸の女性。アニメや漫画で見るサキュバスみたいな恰好をしている。 「生きてるのね、あたし」  心底残念そうに呟いた女性は、ゆっくりと立ち上がって私を見つめた。 「女か」 「え?」 レザー素材のスクール水着のような服装に立ち上がった時に黒い紐のような尻尾が生えていたように見えた。そのまま女性は雨が降っているのに上を見上げてぼーっとしている。糸が切れた人形のように綺麗な横顔だった。なんでこんなところでゴミの上で倒れていたんだろうか、酒を飲みすぎて倒れてしまったんだろうか。 さっきの吐き捨てるような「女か」ってどういうこと?頭の中にはてなが浮かんで残り続ける。言葉が喉に絡みついてうまく出てこない。 なんと声をかければいいのだろうか、そんなことより風邪をひいてしまう。よかったら話を聞かせてください、いやいや、。私は一体何がしたいんだ。 「あっ」  その後その女性はまた後ろからゴミ袋にダイブした。 「ちょ、ちょっと、なんでまたゴミに倒れこんだんですか!汚いですよ」  混乱した頭で私は思わず駆け寄っていた。傘を差しだして自分なんかよりその驚くほど綺麗な女性の頭上に差し出す。 「……どうでもいいの」 「え?」 「あたしはもうすぐ死ぬから。あんたは女でしょ、あたしに関わったって何もいいことなんかないわよ」 「……死ぬ?」  いきなりゴミ袋の上に倒れこんだサキュバスのコスプレをした美女に死ぬといわれたら、ただのBL漫画家の私は、何と答えればいいのだろうか。 「どっか行って」  はい、わかりました。ここで物分かりがいい人間だったらよかった。人間に本当に興味関心がない人間であればよかった。  しかし私は無意識に、創作者としての本能的に、彼女の表情を冷静に読み取っていた。 「っ?」  私は、ちぎれそうな程細くて頼りない腕に繋がっている小さくて冷たい子供のような彼女の手を掴んだ。 「とりあえず私の部屋に来てください、お話聞きますから」  彼女の体は私より10センチ程背が高いモデル体型なのに驚く程軽く、私と違って豊満な胸を見て空気が詰まっているのかもしれないと思ったほどだった。私に引っ張られるまま、彼女はよろけて私の胸の中に倒れこんできた。 「……」 「嫌になったらまた出ていってくれればいいですから」  子供を説得するような声音でそういうと、女性は、はあと生暖かい溜息を一つついて私によりかかってきた。 「なんだそっちね、もうどうでもいいわ」  震えている彼女に、自分の着ているカーディガンをふわりとかけると、私は捨てられた犬を拾うようにサキュバスの恰好をした美女をゴミ捨て場から拾った。  玄関から廊下を進んでエレベーターまで誰とも会うことなく少しほっとした私は、エレベーターの隅で縮こまっている彼女に声をかけた。 「……レイヤーさんですか?」 「なんで、あんた私の名前知ってるの?」 「え?」 「レイヤって呼んだでしょ?」 「レ、レイヤさんっていうんですね、私はゆうっていいます。ゆうって呼んでください」  幸い、誰とも会うことなく部屋に戻ることができた。 「タオル持ってきますね」  玄関から入ってすぐ廊下だったので、私は突き当りの扉から入ってすぐの洗面所からタオルを持ってきてレイヤさんに手渡した。 「これで体や髪を拭いてからまずはシャワーを浴びてきてもらいましょうか、話はその後聞きますから」 「ええ」  レイヤさんはあきらめたような光のない目で答えた。レイヤさんがお風呂でシャワーを浴びている間に着替えとかを準備しておこう。 「お風呂はこの部屋です、先に入っていてください」 「一緒に入るんじゃないの?」 「え!?」 「あんたは男なんだから結局そういうことするのが目的なんでしょ」 「はあ?」  私は衝撃過ぎてタオルを落とした。はらりと落ちたタオルを拾うこともせず立ち尽くしている私を冷めた目で眺めているレイヤさんに、私は自分の手を眺めた。  自分の髪は長いから、後ろで一つ縛りにしているから男には見えないはずだし、確かに白いTシャツとジーパンだけど体格がそもそも女だし身長164センチだし、眼鏡かけているけど眼鏡の下の顔は普通にどうみたって女のはずなんだけど。どうして私を男だと勘違いしているの? 「女!です」  ほら、声だって女じゃない! 「さっき倒れこんだ時わかったのよ、胸が全くなかったでしょう、そんな女がいるはずがないじゃない」 「いやいやいやいや!女だから!なんならここで脱いで見せてあげましょうか?」  私はやけになってTシャツを脱ぎ始めた。スポブラ姿の私を見て、レイヤさんは目を大きく見開いた。 「ほら、わかってくれましたよね」  どや顔でレイヤさんにない胸を見せつけた。流石にこれで男っていう人はいないでしょう。だって白い無地のスポブラだよ、スポブラしてるロングヘア眼鏡の男気持ち悪すぎるでしょ。 「下を見るまでわからないわ」 「おかしいでしょ!?そこで真顔はおかしいでしょ。ちょっとは考えてくれてもいいでしょ」  私は、初対面のモデル美女サキュバスコスプレイヤーさんの前で全裸にさせられた。 「どうですか!女ですよね……っくしゅん」 「信じられないわ、女なんて」 「信じて!初対面の美女の前で全裸になった私を信じて」  レイヤさんは、私にすっと近づいてきてじっと私の顔を見つめた。 「あっ」  すっと白い手が伸びてきて私の眼鏡をすくうように奪い取られた。 「思ったより綺麗な顔しているのね」 「へ?」 「信じるわ、実は全裸になった時点からわかってたの」  え?は? 「ふふっ」  妖艶に笑ったレイヤさんは、髪を耳にかけながら私に背を向けた。尻尾がくるくると笑っているように動いている。まるで生きているみたいだ。 「あっ、ハイ」  なんで私がリードされているの?  でもレイヤさんの肩の力が抜けた気がして、私は自分の緊張の荷をおろすように首を傾けた。ぱきっと首から音が鳴って、思わず反対側の首の音も鳴らす。  ぱきっ。 「えっ」  その尻尾、まるで生えているみたいなんですけど。私は尻尾を指さしながら全裸になったまぶしいくらいのパーフェクトプロポーションのレイヤさんと尻尾を見比べた。 「は、生え……?」 「生えているわ、サキュバスだもの。当然でしょう」 「サキュバス?」  コスプレイヤーさんの中では、キャラクターになりきる人というのもいるらしい。私はBLしか見ないからこういうサキュバスお姉さんの出るアニメや漫画は見ないけれど、もしかしたらそういうキャラになりきっている人なのかもしれない。でも、だとしてもお風呂にまでお尻の割れ目のてっぺんあたりにある謎の尻尾をとることなく入る?  サキュバスだもの。そんなこと真顔でいう?  自分の頭を洗いながら考えていた。もしかしてレイヤさんって、本当にサキュバスなのでは?いやいやいや、がしがし頭を洗いながら首を振った。  そんなことあるわけないでしょ。私ったら、ははは。先に洗髪などを済ませたレイヤさんは先に湯舟につかっていた。すごい視線を感じる。私が頭を洗っているのを、私が体を、顔を洗っているのをじっと見つめている。 「ま、まだ、男だって疑っているんですか?」 「え?い、いえ、その」 「?」 「あなたは、何で私を部屋に連れてきたのかしらってずっと考えていたの。男じゃなかったら、あなたは女の人が好きな感じなのかしら?それであたしを連れてきたの?あたしをここに連れてきてお風呂に入らせて、何かあなたにメリットがあるかしら」 「メリット?そんなの考えてないですよ」  シャワーで自分についた泡を落としながら、首を振った。 「ただ心配だから連れてきただけです」 「心配?見ず知らずのあたしを?こんな恰好をしている、今は裸だけど、女のあたしを?」 「そうです、何かおかしいですか?」 「おかしいわ」  即答だった。主人公みたいに正義感ぶって答えてみたけれど、「おかしいわ」で一蹴されてしまった。そこは漫画だとおかしくないんだけど、現実はどうも感情で動くようなタイプは理解されずリアリティに欠ける行動をする存在だと思われてしまうのかもしれない。 「おかしいんです、私」  レイヤさんの隣にざぶんと浸かると、レイヤさんは私から目を外した。 「理解できないわ」  理解できない、私にもわからないことがあった。座った時に踏まないように注意した尻尾。 「レイヤさん、これ触ってみてもいいですか」 「危ないから触らない方がいいわよ」 「え?」  よく見ると尻尾の先が尖っているからだろうか。 「媚薬を注入するのよ、これ」 「……」  何それ。 「あまり勃たない男に注入するの、クスリみたいなものね。怖いでしょう」 「いや、素晴らしいと思います」 「え?」 「ちょ、その設定、新作の悪魔の尻尾に使わせてもらっていいですか、忘れないようにしないと、あ、私そんなに風呂好きじゃないんで、もう出ますね」  いそいそと風呂から出ると、私は急いでタオルで体を拭き始めた。尻尾の先から媚薬が出てそれを注入、めちゃくちゃいいアイデア、エロイ、最高にエロイ。新作のネタにしよう。  がらりと扉が開いて首を傾げたレイヤさんが出てきた。 「あっ、もう出たんですか」 「いきなりどうしたのよ」 「いいアイデアなので!私漫画家なんですよ」 「?」  きょとんとするレイヤさんは可愛かったが今はそれどころじゃない。急いでさっき全裸で持ってきた下着とジャージを身に着けると、私はそのまま洗面所を出た。 「あ、これ着てください。多分きついと思うけど」  私はジャージしか持っていない。今時のおしゃれ女子が着るパジャマを持っていない。レイヤさんには悪いけど比較的持っている中でも綺麗な黒いジャージで我慢してもらおう。 「え、ええ」  戸惑うレイヤさんをしり目に私は髪の毛も乾かさずいつものようにタオルを被って眼鏡をかけて仕事部屋に直行した。  腐ノートという仕事用のノートにネタを書き込んでいる。ネタ帳となっている腐ノートは私の妄想含め見せられないことも多数書き込んでいる。がりがり一心不乱にアイデアを書き込んでいく。 「媚薬、尻尾、悪魔、新作に使える!」 「ねえ」 「あと、そうだな、悪魔は拾った設定にしようか、ボロボロで」 「ねえ」 「ばびゅっ!」  攻めが達したときのような叫び声をあげてしまった。振り返ると、レイヤさんが髪の毛を拭きながら、私のパジャマからスイカのような乳をあふれ出していた。いや、乳をあふれ出していたっておかしいかもしれないけど、それしかもう目に入らなかった。 「ボタン、3個しか止めてないじゃないですか」 「ええ、でもいつも着ているのに比べたら布面積は広い方よ」 「普通は比べるまでもなく広いはずなんですけどね」  胸から視線を外し、ちょっとだけノートにアイデアを加筆した後、書いていたノートを閉じる。 「あんぎゃっ!」  振り返ると、床に落ちた私のBL本をレイヤさんが拾い上げていた。表紙が丁度刺激が強いやつだ。やばい、思いきりケツ丸出しでムキムキの男がキスしてる表紙だわ。 「あなた、男の人が好きなのね」  8年間ずっと一緒にいた旦那に浮気されたような表情で私を見つめるレイヤさんの瞳は暗黒大陸に上陸してしまっていた。 「嫌いですよ」 「嘘よ、嫌いだったらこんな本が波打ち際に打ち上げられたごみのように部屋に落ちているわけがないわ」  いい表現だけど、宝なんだよな。私の部屋はところどころ私が床に宝物を落としていて、床に落ちている宝の中から好きなものを選んで床に寝っ転がって読んでいる。掃除?何年前からしていないっけ、どうでもいいのよそんなこと。見えるところコロコロしていれば。 「いやいやいや、世の腐女子ってむしろ逆に男性が苦手な人が多いような気がしますよ、そりゃ普通に恋愛して腐女子で、って人もいると思いますけど、私は男性となんてまともに話せないですよ。大きなガラスがあるんです、被告人と面会人みたいな、自分が恋愛できるとも思っていないし、興味もないBLしか興味ない!」  はあはあ、肩で息をしながらレイヤさんを見つめる。レイヤさんは、顎に人差し指をあてて、セクシーに首を傾けた。 「よくわからないんだけれど」  腐女子の雄たけびは美人サキュバスさんには響かなかったらしい。 「こういう絵の男性で妄想するのは好きですけど現実の男の人は苦手です」  何?泣きたいんだけど、何言わされてるの?なんでこんなに傷つけられている? 「男の人が苦手ということ?」 「苦手というか、無理です。怖いとまで思う」 「そう、一緒ね」  レイヤさんは、BL本をうまくどかして床にうずくまった。 「わたし、だめなの。どうしても男の人がだめなの」 「あ、え?でもサキュバスだって」 「そうよ、サキュバスは、男を誘惑して精力を吸い取るのよ、食事の代わりに」 「つまり?」 「男がだめなサキュバスってこと、笑えるでしょ。触られると体が石みたいに固くなって動けなくなる。どうしようもない落ちこぼれだから、魔界から捨てられたの」 「そんな、えっと、男の人が嫌いなサキュバスがいたって普通じゃないんですか?」 「普通じゃないでしょ」  物を買うにはお金を払わないとだめでしょ、というような至極当たり前なことに対する返事のように、そういった。 「男の人が苦手なサキュバスは、捨てられてどうなるんですか?」 「餓死して死ぬしかないわ、行く当てもないし」 「じゃあ、なんで私のこと、男だってわかっていたのについてきたんですか」 「最初は女の人かと思ったのだけれど、胸がなくて男の人だって思って、その時にふわっとすごく甘い脳髄にくるような匂いがしたの、我ながらちょろいと思うわ」  吐き捨てるようにつぶやくレイヤさんにはそれだけで絵になるくらいの色気があった。お風呂から出て少しのぼせたのか、なんだかぐったりしているのも色っぽい。 私は自分の体を嗅いだ。私ってそんな甘くていい匂いがしていたんだ。柔軟剤の匂いかな、でも自分じゃ気づかないもんなんだな。  レイヤさんは立ち上がってふわりと私に近づいてきた。なんだか頬が蒸気していて、同じボディソープを使ったはずなのにすごくいい匂いがする気がした。 「今はしないけど」 「え?」  くんくんと私の髪の匂いを嗅ぐレイヤさんに戸惑いながら私は顔をそむけた。美人は心臓に悪い。いつもと同じ匂いのはずなんだけど、あ、そうか。 「もしかして、これの匂いですか」  仕事の鞄からごそごそと今日もらってきたハンドクリームを出した。レイヤさんはくんくんと匂いを嗅いで、これだわと呟いた。 「これ嗅ぐと安心するんですかっえ?え?」  がたっと、レイヤさんが床に膝をついたので私は急いで椅子から降りて彼女の体を支えた。ゴミ捨て場でレイヤさんを支えていたときのように。 「ど、どうしたんですか、もしかして本当にぐったりするレベルでのぼせた?ちょっと待っていてください、ベット連れていくんで」  私は、レイヤさんに肩をまわしながら自分のベットまでレイヤさんを運んだ。ぐったりとしたレイヤさんを横たえたが、レイヤさんはふらふらと起き上がった。 「え、あ、だめですよ。今水持ってくるんで」  レイヤさんは、私の手を掴んで息を荒げている。 「レイヤさん?」 「どっかいって」 この会話、あの時ゴミ捨て場でもした気がする。今はしていることとやっていることが逆だけど。 「わっ!え?」 レイヤさんは、私の手を自分の鼻先にもっていって匂いを嗅いだ後、ぐいっと私を自分の方へと引き寄せた。私の首元に鼻先を近づけて、熱い唇をちゅっと首元に落とした。 「ばべっ!?」 急に急所を狙われたような気分になって椅子から身を引こうとすると、がっと頭を掴まれた。 「え?」 「はー、はー」  私は、BL漫画家だ。発情した受けなんかは媚薬セックスの最中目がハートになるような表現をすることがある。しかし、ここは三次元。次元が違うわけだ、それなのに今私がレイヤさんを表現するとしたら、目がハートになっている。それしか表現できない。 「レイヤさん!?」 「禁断症状……」 「きんっ!? 「サキュバスは、精気を一定期間摂取していないと禁断症状が出て誰かれ構わず襲いたくなってしまうの」  頬を挟み込まれて、吸い込まれるように私はレイヤさんと唇を合わせていた。 「んっ!?んん?」  熱い果実に唇を合わせるような、そんなキスだった。キスなんていわずもがな私は今までしたことがなかった。ファーストキスなんて生きていてすることになるとも思っていなかったし、そういうことはないだろうとあきらめてさえいた。  それなのに、何これ。どうしてこうなったのかわからない。  ファーストキスは自分の部屋。机の上には、漫画の道具、液タブとパソコン、それから横には腐ノート。床には散らばったBL本。色気のない白いベット、ベットの下には推しのR18抱き枕が隠してある。私のファーストキスはムードも何もない状態で、突然始まって、突然終わった。 「んんんっ……んんっ、ん?」 「あ、あれ?」  レイヤさんは、先ほどとは打って変わった様子で何が起きたのかわからないといった顔できょとんとしていた。 「どうしてかしら、枯渇していた精力が体にあふれてくる」  手を握ったり開いたりして感動したように目を輝かせるレイヤさんに、私は目を開いたり閉じたりしてきょとんとしていることしかできなかった。 「優っていったわよね」 「……」  レイヤさんは、私の耳元にすっと近づいてきてぼそっと呟いた。 「わたしの精力が回復するまでの精気って、優、あなたすごくエッチなのね」  腐女子のエロに対する力は無限大である。BY葉緑体。 「って、ちがうちがう、え?なんで私、キス!?え?」 「わたし、しばらく精力を摂取していなかったらこのまま餓死するはずだったのよ、でもあなたのそのハンドクリーム?の匂いを嗅いだら、なんだかすごくムラムラして、つい。 「つい!?つい、で奪われたの私のファーストキス」  ちょっと、待って。精力不足で餓死寸前だったレイヤさんが私にキスしたことで元気になったってこと? 「と、ところで、近いんですが」  レイヤさんは、私の手を握って猫みたいに私の腕にすりすり頭をこすりつけている。 「助けてくれてありがとう、優。私、これからこの世界でなんとかやってみようと思うわ、たまに家に来て精力を吸わせてもらってもいいかしら」  さっきまで魔性の女みたいな感じだったレイヤさんが、子供みたいな顔で私を上目遣いで見つめている。 「い、いいですよ」 「ありがとう」 「出ていかなくてもいいですよ、なんか危なっかしいので。うち、狭いですけど」  男が嫌いで一度魔界から追い出されてゴミ捨て場で寝ていたレイヤさんをまた追い出すなんて、私にはできなかった。 「……」 「うわっ」  がばりとベットに押し倒されて、頭が真っ白になっていると、頬にぽたぽたと雫が落ちてきた。 「私、男嫌いのサキュバスだし、女を喜ばすこともできないし、役にたたないわよ。役立たずで、媚びを売るのだって苦手だし、ただ顔と体がいいだけだって言われてきたの。笑ったりするのだって苦手だし」  レイヤさんは、本当にそういうタイプなんだろう、媚びを売って嘘をついたり隠したりできなくて、うちに来た時だって笑ったり泣いたりしなくてほぼ表情が変わらなかった。 「大丈夫ですよ」  私はそんなレイヤさんの背中に腕をまわした。 「大丈夫」 「捨てないで……」 「捨てませんよ」  そんなこんながあって、私とレイヤさん(サキュバス)の同居が始まったのだった。 「おとなしく今日もお留守番していてくださいね」 「ええ」  はちきれそうなパジャマは相変わらず。同居してから一週間たったが、レイヤさんに変化があった。レイヤさんの目は、発情していないのに目がハートになっている気がする。 「いってらっしゃい、優」 「はい、行ってきます」  同居が始まってから私にも変化があった。 「他の人類に触らせないでね」  手をぎゅっと握られて私は、不覚にもドキッとしてしまっている。レイヤさんはいつも他の人に触らせないで、とヤンデレみたいなセリフをいうことがある。触られる予定もないし、触る予定もないので当然大丈夫なんだけど、こうして目を真っ黒にさせて手を握られると、そうしないといけない暗示をかけられている気がする。 「いってきまーす」 * 「最近、葉緑体先生、恋人ができました?」 「え?なんでですか?」 「キスの描写がリアルになったので」  コーヒーを吹いた私は、口元をナプキンで拭った。
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