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気がつくとカウンター越しの彼を見てしまうので、目の前のサイフォンに集中する。料金を頂く以上、変なミスは出来ない。
カウンターしかない古風なカフェには、僕らしかいなかった。もうすぐ閉店の二十三時になるのだから、当たり前といえば当たり前だ。職場帰りの人がゆっくり過ごせるように、と父が決めた閉店時間だが、水曜日のこの時間は僕とこの人しかいない。この人はゆっくり過ごしているかもしれないが、僕は高揚でいつも頭がパンクしている。
フラスコからロートに上ってきたお湯を、粉と馴染ませるようにヘラで優しく撹拌する。彼は——木崎さんは、カウンター越しにサイフォンを眺めだした。きっと油断すれば目が合ってしまう。
いや、でも、今なら話しかけても不思議じゃない。僕は一度手を止めた。
「フラスコを火にかけると中身が上るって、何だか面白いですよね」
自然を装って話しかける。
「ええ、そうですね。見ていて楽しめます」
彼は僕に微笑んだ。そうして、ゆったりとサイフォンに目を移す。波立つコーヒーを眺めるまなざしは、まるで子供を眺める母親のように優しい。僕は最後に一回だけ混ぜて、ヘラを取り出した。
ふと見ると、彼はスマホを眺めていた。顔にかかった髪を耳にかけなおしている。綺麗だ。ずっと見とれてしまうくらい、綺麗な人だ。だから、この言葉を言うのは正直気が引けた。それでも、早めに言っておこう。
「そういえば、先日内定を頂いたので、来年の三月でこの店を離れます」
彼は目をみはって、顔を上げた。
「あら……残念です。あなたのコーヒー、好きだったのに」
胸が高鳴った。
「ありがとうございます……嬉しいです」
彼は優しく、そして可憐な笑顔をうかべる。
「喜んでいただけて何よりです。これから毎週言いますね」
「それは……ちょっと……あはは」
毎週言われたら死んでしまう。僕は頬がちょっと熱くなるのを感じつつ、フラスコの下に設置したアルコールランプを取り出し、火を消した。ロートのコーヒーは黄色の泡を立てながら、フラスコに落ちていく。
「次も喫茶店ですか?」
「いえ、会社員です」
「えっ?」
彼は間の抜けたような表情になった。そんな顔は初めて見た。
「な、なぜ?」
動揺しているようで、少しぎこちない。この人もこんな顔するんだなあ、と意外性を感じると共に、そうした一面を見られたのが嬉しかった。
「何と言っても、お金が必要なので……しばらくは会社員で貯めていきます。ゆくゆくは、このお店みたいなカフェを開きたいです」
コーヒーが若干ロートに残っている。ロートを二三回前後に動かして取り外すと、残りがフラスコの中に落ちていった。ロートを近くに置いてフラスコの取っ手を掴み、コーヒーカップに流し込んでいく。
こんな風に、自分が色々試行錯誤を重ねて、やっと選んだコーヒーをお店に出したい。それで人からお金がもらえるならラッキーだ。ただ僕は、美味しいコーヒーを追い求めたい。その為にはお金がいる。
「……支援しましょうか」
思わぬ提案に、驚いて手が止まった。顔を上げると、彼の暖かな眼差しと目が合った。
「あなたの腕で会社員は勿体ない。開業を阻むものが資金であるなら、私が出しましょう」
「い、いやいや。それは申し訳ないですよ」
言いながら、コーヒーを全てカップに注ぐ。川が湖を作るように、底から溜まっていく。最後の一滴が、木の葉から落ちる雫のように水面を波立たせた。ソーサーへ慎重に乗せて、彼の前に優しく置いた。彼は「ありがとう」と言って嬉しそうに受け取ってくれる。
夜更けの空のような漆黒に、彼の表情がぼんやりと映っている。品格と熱意を感じさせる、彼だけの美しい姿。
彼がコーヒーに口をつける間、僕の頭はぐるぐると回る。確かに彼は立ち居振る舞いに余裕があって、どこか威厳を感じた。その反面、声は優しく心地よく、笑顔は温かいものだった。多分、高貴な方なのだろう。開業資金が八桁と聞いても臆せず出せる人なんだろう。
この人が働いてるカフェなら、毎日通いたいかもしれない。
「……美味しい」
心からの賛辞だった。
「私はね、毎週この時間に、あなたと話しながらコーヒーを飲むのが大好きなんです」
ソーサーにカップを戻す。カチャ、という品の良い音が響いた。
「それが無くなるのは、私にとって甚大な損失です。だから、私に出来ることは全てやりますよ」
その言葉に、一抹の違和感を感じた。優しくて強くて素敵な言葉の中に、有無を言わさぬ圧迫感がある。 この人は僕を押さえつけたい訳じゃない。それは絶対に違う。ただ、ただ……いつも穏やかなこの人から、強かな言葉が出てきたことに驚いている。
「えっと……」
気まずさを誤魔化すために、口をついて言葉が出た。
「じゃあ、一緒に働いてくれますか?」
彼は固まった。
「あ、あはは!なんて、冗談ですよ」
言うんじゃなかった。顔が火照ってくる。まずいまずい、と焦る僕の耳に響く声。
口元を手で覆いながらも、大声を開けて笑う彼。おかしくてたまらない、と言ったふうに。
「あはは、あは……ごめんなさいね。私と働きたいんですか?」
「す、すみません、急に突拍子もないことを」
「いえ全く。むしろ嬉しいですよ。私と毎日顔を合わせても良いとおっしゃるのでしょう?」
「え?! そ、それは、まあ」
「へえ……」
彼の笑みが妖しく、深くなる。穏やかな太陽ではなく、夜を刺す三日月のように。
「私はコーヒーを作った経験が数える程しかありません。だから、働くとしても最初は裏方か接客のみになるでしょうね」
「それ、ありがたいですよ。実は収支計算とか、確定申告とか本当に苦手で……」
「そうなんですか? ふふ」
「それに、木崎さんの接客も見てみたいです」
「ありがとうございます。あなたのように素直で可愛らしい方が同僚だと、私もやる気が出るでしょうね」
「えっ、あ、ありがとうございます。失礼になっていなければ良いのですが……」
「まさか。素直さは美徳ですよ。隠されるよりよっぽどいい。人によって好みはあるでしょうが、私は好きですね」
その言葉に、少しほっとした。 昔、お客様の反応にちょっと正直になりすぎて、揉め事になったことがある。『蒼士の素直さは魅力だけど、相性の悪い人もいるからね』と父に言われてから、接客ではあまり思ったことを言いすぎないよう気を付けてきた。それでも、きっとどこかで正直に言ってしまうことがあると思う。この人にもたくさんデリカシーのない発言をしていたかもしれない。
だが現状として木崎さんが通ってくれているのは、きっと僕達の相性がいいんだろう——そうひそかに思っていたことが、やっぱり事実だと分かって、嬉しかった。
「ええと、僕って結構分かりやすいですか?」
「ええ。店に入ってから今まで、あなたの抱く感情が手に取るように分かりますよ。今日は慌ただしいですね」
恥ずかしい。そんなにバレていたなんて。ああ、待って。彼に向ける好意も気付いているのだろうか……。
「そ、そんなことよりケーキ食べませんか! 抹茶の新作です!」
誤魔化そうとして言葉がごちゃごちゃになった。
「頂きます。ありがとう」
それから、色んな話をしたが、好意がバレているかもしれないという焦りで頭がいっぱいだった。
閉店時間になり、彼はお会計を頼んできた。僕は金額を伝えて、お金を頂く。彼は確か家計簿をつけているからレシートを渡すのがいつもの流れだ。僕は……。
「あら」
彼のスマホから音楽が鳴っている。彼は僕に断って、イヤホンで電話に出た。僕はそのすきに、レシートの裏面に書き込みをした。ああ、絶対良くない。絶対良くないけどやりたい。
「……ええ、ですから……」
トレーにお釣りとレシートを置いた。気づいて欲しくて、レシートは二つに折って入れた。彼は空いた両手を使って財布にお釣りを入れていく。
「あら、そうでしたか……ええ、こちらで対応————」
レシートを手に取る。裏面に書かれたことに気付くと、彼はちょっと言葉が止まった。そして僕の方を見て、ふふっと笑った。
「……いえ、失礼。少し可愛いものを見てしまって」
自分の頬が熱くなるのがわかる。彼は僕に手を振りながら外に出ていった。僕は頭を下げる。渡してしまった、連絡先…………。
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