陽の差す檻

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 母は僕に一人暮らしをさせていた。比較的自由の利く大学生時代に一人暮らしを経験しておけば、社会人になった時に苦労は少ないだろうという配慮だろう。……と言っても、結局父の喫茶店を手伝った後、そのまま実家で寝ることも多い。あんまり一人暮らし感ないな、と思いながら週三日実家のベッドで眠っている。  今日も本来はその予定だったが、木崎さんとのやり取りを実家でやるのはどこか気が引けた為、どうしても一人暮らしのマンションへ帰りたかった。寂しがる父を横目にサクサクと喫茶店を出て帰路に着く。  表通りを抜けて、住宅街へ近付いていく。歩道を街灯が照らし、コンクリートの上を踏みしめていく。ガードレールの内側を車が一台走り去っていく。僕はイヤホンを取り出して耳に装着し、スマホを取り出した。いつも聴いてる穏やかなジャズを流そうと思ったら、ピコン、と通知が届く。 『木崎です。お仕事お疲れ様です』  心臓が高鳴って、スマホを触れる手に力がこもる。思わず立ち止まり、スクリーンショットを取った。美味しい豆に出会った時ですらこんなにドキドキしなかった。甘ったるいのと苦しいのが波のように交互に押し寄せて、心をぐるぐる締め付ける。うう、とふらふらしながら、アプリを開いた。  早く返信しよう。 『ありがとうございます!』  とりあえず打った。次何書こう。  急に連絡先を渡したことに関して、一言謝っておこうか。そしてついでに、今度お茶したいと誘おうか。まず謝ろう。 『突然ID渡しちゃってすみません……』  打った。現在こちらの文章は二行。既にどちらも既読マークがついている。ああ、でもこうやって文章を小分けにするのは面倒だろうか。向こうが嫌がったりしていないだろうか。  ぐるぐる悩んでると向こうから返信が来た。 『全然大丈夫ですよ。嬉しかったです』  嬉しかっただって!!!!!!!!!!!!!!!!!!  飛び跳ねたくなったが、車が横を通り過ぎたことで一気に現実に引き戻される。ふう、と深呼吸する。誘おう、お茶に。僕は歩きながら文字を綴る。 『今度どこかでお話しませんか』 『いいですね! 空いている日はありますか?』 『今度の十一日はどうでしょうか』 『明後日ですね。終日空いています。ランチでもディナーでも、ご一緒できますよ』  ディナー。ディナー。僕の脳は最速で夜空の元で待ち合わせる木崎さんの姿を投影した。僕を待って、僕と一緒にレストランに行ってくれて、優しく微笑んでくれる木崎さんを想像した。  ダメだ。さすがにハードルが高い。何だかいけないことをしている気がする。 『いややっぱりランチしましょう!』 『分かりました』 『お店はどういう系が良いですか?』 『てんぷらがとてもおいしいお店を知っているのですが、良ければどうでしょうか?』 『行きたいです!!』 『分かりました。では、十一時ごろに駅前集合でどうでしょう?』 『大丈夫です!』 『ではそれで。とても楽しみです』 『僕もです!』  デフォルトの可愛いうさぎスタンプが返ってきた。笑顔でこちらに手を振っている。ううう、なんて可愛らしい。  僕は余韻を感じながらもスマホをポケットにしまった。今日は近道をして帰ろう。早く帰って、さっきのメッセージの続きをじっくり眺めよう。鼻歌を歌いながら、ステップを踏んでビルとビルの間に入っていく。月が雲に隠れ、街灯の差さないその路地裏は一切の明るさを失ったが、僕にとってはどうでもよかった。  約束の日は明後日だ。どんな服を着て行こうか、何を話そうか。そんなことを考えながら歩いていた。完全に浮かれていた。  だから、靴に触れるまで気付かなかった。  ぺしゃり、と水の跳ねる音が聞こえる。液体に足を踏み入れたような感覚がある。目を靴に向ける。  ——黒くて、薄っすら赤い。鉄の匂いがする。  それが何なのか理解する前に、顔を上げた。 「……え」  ビルとビルの間のひっそりとした小さな空き地に、まるで雨上がりの地面のような、赤い水たまりがある。大きな塊が——理解しちゃいけない——いくつか、転がっている。ピクリとも動かない。  その真ん中に立っている人。桜の木のように、真っすぐしなやかだ。けれどその幹はところどころ赤黒いものが飛び散っている。その人は振り返る。  雲が、晴れていく。  その人は手元の何かに向けてトントントンと指を動かすと、僕のスマホが鳴った。 「こんばんは。お仕事、お疲れさまでした」  ——僕は、理解してはいけないことを、理解した。 「……え……」  力が抜けて、その場に座り込む。ぺちゃ、と音がする。彼はまるで迷子の子供へ寄り添うように、穏やかで優しい微笑みをたたえながら、ぺちゃり、ぐちゃりと足を進める。 「歩きスマホの危険性をご存知ですか。ある携帯会社の調査では、その九九%が歩きスマホを危険だと感じながらも、七三%の人間が実際にやったことがあると回答したそうです。そしてそのうちの六六%が、人にぶつかったことがあると回答している。更に、三・六%の人間が、なんと線路に落ちたことがあるんですって。それでもやめられないのはなぜでしょうね」  けたたましい警鐘が脳内に鳴り響く。ここにいては殺される。僕は地面についた手に力を込めて、立ち上がろうとした。しかし、彼はとんと大股で僕に近付いて、その肩をグッと掴んだ。 「まだ、話し中」  さあっと血の気が引いていく。  あんなに優しくて穏やかだった人が、怖くてたまらない。どうすればいい、どうすれば。 「……聞く気分じゃないか」  彼は目を細め、黒々とした無機質な何かを僕の胸に押し付けた。僕は——。 ***  はっと目が覚めた。跳ねるようにして飛び起きると、見慣れた一人暮らしの家だった。開けっ放しの窓からカーテンがふわりふわりと浮かんでいる。荒い息を整えながら首に触れると、ぐっしょりと汗をかいていた 「……夢?」  考えるより先に、ベッドから降りてクローゼットへ向かった。戸を思い切り開くと、昨日着ていたであろう服がほかと同じく畳まれている。急いで手に取って鼻を押し付けるが、自分の家で使う柔軟剤の香りしかしない。  すぐに走って玄関へ向かう。昨日の靴はいつもと同じように並べられており、手に取って様々見回したが、血痕らしきものはない。 「ゆめだったの、か」  どっと疲れが押し寄せる。その場に崩れ落ちて深呼吸した。酷い夢を見たものだ。僕はふらふらとベッドに戻って、倒れるように飛び込んだ。今日は1日寝よう。  しかし、僕を呼ぶように、スマホからメッセージの通知音が飛んでくる。ベッド脇に置いていたスマホを手に取って見ると、木崎さんからメッセージが来ていた。驚いて一瞬心臓が冷えるが、あれは夢だったと自分を落ち着かせ、メッセージを表示する。 『今日はよろしくお願いしますね』 「今日……?」  日付を確認すると、僕の記憶から既に二日経っていた。今日は十一日の十時だ。 「やべっ!」  疲労が飛び散る。ひとまずシャワーを浴びよう。風呂場へ駆け込んだ。  木崎さんとのランチが楽しみすぎて変な夢を見たのだろうか。それにしても、見る夢が酷い。  いつからが夢だったのか、どこまでが現実なのか。そんなことを考えたが、慌ただしい準備に押し流されて消えた。
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