陽の差す檻

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 息を切らしながら駅前へ走る。シャワーを浴びたのに、結局汗だくになってしまった。  夏が近づいている。揺れる街路樹の脇を走って、待ち合わせの駅前が見えてきた。行き交う人の波の中で、彼の姿はすぐに分かった。日陰になっている建物の影で、スマホを眺めている。いつもは仕事帰りのようでフォーマルなシャツを着ているが、今日は随分とカジュアルだった。グレーのカーディガン、白シャツに黒のスラックスは、彼によく似合う。  踏み出して声をかけようとしたが、ぞわりと寒気立つのを感じた。あのあまりにも鮮明な夢を思い出してしまったのだ。このまま帰ろうかと悩んだ。 (いや、でも……わざわざ時間取っていただいたのに、この態度は失礼だな)  僕は結局行くことにした。深呼吸して、真っ直ぐ足を踏み入れていく。彼はふと顔を上げて、こちらに気付いた。優しく微笑んでくれていて、なんだかほっとした。 「木崎さん、お待たせしました」 「いいえ、私も今来たところですから。……暑かったですか?」  彼はボディバックのポケットから白いレースのハンカチを出して、僕の頬にあててくれた。体温がグッと上昇するのを感じる。僕は慌てて首を横に振って離れようとするけど、彼は僕を追いかけるように踏み出した。 「体が冷えますよ」  真っ直ぐな瞳を向けてくる。ああ、この柔らかいけど押さえつけてくる声。僕は体を止めて彼のされるがままにされていた。彼の手は僕の頬、額の汗を拭って、首元も軽く触れた。くすぐったくて身動ぎする。  そのままハンカチを元の場所に戻す。洗いますよ、と言う前にしまわれてしまった。 「行きましょうか」 「あ……はい」  彼は上機嫌に歩き出した。僕はたたたと走って隣に着く。彼から爽やかな柑橘系の香りがして、胸が高鳴った。 「天ぷら、久しぶりです……」 「わあ、一緒ですね。私も久しぶりなんです」  彼は随分上機嫌で、いつもよりきらきらしていた。雪のように白い肌には、汗ひとつ流れていない。それでも太陽の元で、小さな光が反射して彼が輝いて見える。幻覚だろうか、妄想だろうか。なんにせよ、僕は彼と目を合わせることが難しかった。じいっと見入ってしまいそうで。  少し歩くと、彼が思い出したように足を止めた。 「あ、そうだ。ちょっと近道をしてもいいですか?」 「はい?」  彼が目を向ける方を見ると、歩道の右側にひっそりと存在する裏道がある。建物と建物の間に伸びる、薄暗い通りだ。道幅は2人がやっと通れるくらいか。 「少し狭い道になりますが……」  暗い道を見ると、昨日の夢を思い出す。あの時、裏道を通らなければあんな思いをすることは無かった。  夢だと言うのに、鮮明に思い出せた。 「……えっと、その、お店は、近道を通らないと間に合わない感じですか?」 「そう言う訳ではないですよ」  彼はニコリと微笑んでいる。彼の優しい笑顔はどんな恐怖も和らげるので、本当に不思議だった。僕は、彼がどういう意図であれ悪意の元に提案しているわけではないような気がした。ならば、この態度は失礼に当たるだろう。 「い、良いですよ。こういう裏道、結構好きなんで」 「ありがとうございます。では行きましょう。すぐ着きますから」  彼は裏道へ足を踏み入れる。僕もその後ろを着いて言った。人々の声が遠くなっていく。狭い道には、ただ2人の靴の音だけが響いている。 彼の後ろ姿は、美人と分かる独特の背格好をしている。それが何だか僕の警戒心を解して、安心させた。  道は遠く遠く続いている。両側のビルにはおそらく人がいるであろうに、なぜだかその気配を感じなかった。ふと見ると、とてとて、足元を黒猫が走りすぎて行く。 「猫だ」 「ここを通ると大体いるんですよ。猫、お好きですか?」 「好きです!」 「そうですか」  猫は少し前で止まり、彼は立ち止まって僕に前を譲った。金の目をまっすぐこちらに向けている。 「写真撮ってもいいですか?」 「どうぞ」  スマホを取り出してシャッターを向けた。なるべく刺激しないように距離を保っていたが、何処吹く風かのように、足で首元をかいている。 「逃げませんね」 「ここを通る時に私がよく遊んでいるので、人慣れしているのかもしれません」  初耳だった。 「なるほど。木崎さんって——」  猫好きなんですか、と言いかけながら振り返る。彼はズボンのポケットに手を入れて、真っ黒な何かを取りだした。 「はい?」  昨日の鮮明な記憶が甦って、思わず後ずさった。猫の走る足音が遠ざかっていく。木崎さんはそれを一瞥した後、僕に目を向けて微笑む。 「どうしました?」 「いや……何……」  彼はそのまま——黒いスマホを取りだした。ひどくほっとした。 「私もとろうかなって。でも逃げちゃいましたね」 「あ、ああ……はい……」 「仕方ありません。ではあなたを撮りましょう。はい」  パシャ、と音が鳴る。フラッシュが眩しくて少し目を瞑ってしまった。彼はスマホを眺めて楽しそうにしている。 「少し顔がこわばってますが、どうしました?」  タン、タン、と指を滑らせている。僕のスマホに通知が届いた気がして、自分のを確認する。何も来ていなかった。 「あの……いや……」  彼はスマホをポケットにしまった。 「……すいません」 「いいえ、問題ありませんよ」  昨日のことは夢だった。だがあまりにも鮮明で、タイミングが悪すぎた。  僕は思わずため息をついた。スマホをポケットにしまう。 「行きましょう」 「はい」  上手く笑顔を作れていただろうか。僕は振り向いて歩き出す。 「こっちですかね、楽しみです」  天ぷらのことだけ考えよう。今日のことだけ考えよう。そうしよう、そうしよう、と心を慰めていた。 「お待ちなさい」  彼の、芯の通った強かな声が響く。僕は思わず足を止めた。 「もし、何か困っているのなら……何かを抱えているのなら、お話ししてみませんか」  はっと驚いて、振り向いた。 「他人に話すことで楽になることがあるでしょう。私、そういう機会が多いものですから、傾聴の心得はありますよ」  彼の声は強かだったけれど優しかった。 「……少し、座りましょうか。この先にベンチがあるので。人通りも少しありますけど、それでもよければ」 「いえ……それは……」  本人にそういうことを話すのはどうなのか。甘えるのはどうなのか。それが怖かった。嫌われはしないだろうか。 「……」  彼の瞳が僕を捕らえて離さない。春の日差しのような瞳が、僕を閉じ込めて逃がさない。 「……あの、気分を害さないでほしいんですけど……」  気がついたら口が開いていた。彼は穏やかに頷いた。 「夢を見たんです」 「夢?」 「そう……あなたが、たくさん人を殺している……夢を……」 「……なるほど」 「その人が、手に何かを持って……僕を殺したところで夢が覚めて……すごく、怖くて……だから……」  彼はとん、と優しく僕の方に触れる。昨日感じた、押さえつけるような感覚ではなく、僕に寄り添ってくれる感覚がした。 「それは、災難でしたね」  優しい。蕩けるように甘い。好きな人から心配されるって、どうしてこんなに気持ちがいいのか。 「……でも、まあ、夢なんで。大丈夫です」  これ以上浸っていたら戻れなくなる気がした。僕は彼を安心させたくて、肩に置かれた手を優しく剥がそうとした。そしたらそのまま手を取られて、包むように握られた。彼は嬉しそうに微笑んでいる。  美しい月を描く目のラインに、動悸が激しくなるのを感じる。やっぱりこの人が好きだ。  溢れる気持ちを伝えたくて、口を開こうとした。 「もし、夢じゃないとしたらどうしますか?」  言葉は出てこなかった。 「もし、私が昨日あなたを気絶させていたとしたら?」  彼は包んでいる僕の手を、優しく撫でた。 「この手を振り払って逃げますか? それとも、警察を呼びますか?」 「……いや、だから、夢の、話で……」 「君が見たのは」  僕の手を引っ張って、ぐっと彼へ近付いた。そして、彼は懐から僕の目の前に、黒々とした何かを見せた。バリ、と刺すような音と、威嚇するように光る電流。 「このスタンガンではありませんか?」  昨日と同じ、冷たくて恐ろしい笑顔。  ああ、夢じゃない。  現実だ。  咄嗟に駆け出そうとしたけど、彼に手首をつかまれた。強い力で、ビクともしない。 「やめ、やめて……」  叫びたいのに、か細い声しか出ない。あんなに優しかった彼が、今はただ怖い。  彼は楽しそうに笑って、思いきり僕の手を引っ張る。抵抗出来ずにいると、彼の拳が僕の腹を深く突いた。胃から逆流するような感覚に襲われ、口から液体が吐き出される。 「すきっ腹にパンチしてごめんなさい。やはり二日も食べてないと何も出ませんね」 「え……」  言葉の意味を考える前に、頭がグラグラしてその場に座り込んでしまう。ぴちゃ、と胃液を膝で踏んだ。 「行先は少し変わりますが、美味しいものを食べられるのは間違ありません。あなたが望むなら、私が何でも用意してあげるから」  彼は僕を抱きかかえて歩き出した。視界がどんどん暗くなっていく。数人の大人がぼんやりと見える。 「少しお休み、可愛い人」  その端で、黒猫がこちらを眺めている気がした。
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