3.先生

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そして、ふと思う。この人はいつも私の心を見透かしたように物を言うのだ。まるで、私の全てを知っているとでもいうように。なにか深い意味がある訳ではないけれど、私は先生に聞いた。 「…譲れないものってなんですか…?」  先生は私を見つめる。真意を探るような視線が真っ直ぐ貫くようだった。よく先生は「私たちは似た者同士だ」と笑ったのを思い出す。もし、先生が私を本当に理解してくれているのならきっと、きっと答えが分かる。私でも分からなかった疑問が解ける。 「…。」  少しの間、沈黙が流れた。先生は無表情のまま私を見つめていたがふと悲しい顔をした気がした。 「…そうだね。」  先生の真っ黒な瞳が揺れる。泣いてしまうのかと思ったが、そんなわけはない。目の下まで伸ばした前髪が揺れ動く様を私は知っていた。 「キミはまだ、その感情の名前を知らないだろう。でもたしかに持っているものだ。…いつか、分かる時が来るさ。」  先生は私に背を向けて自身のキャンバスに向き直った。華奢な後ろ姿は酷く小さく見えた。 「…先生―」 ――チリン  何か声をかけなければと思った刹那、またあの音が響いた。 ――チリン  いつの間にか私は先生からとても離れたところに立っていた。先生は私に背を向けたまま先程と変わらぬ姿勢で座っている。グラグラと視界が揺れる。私は思わず彼女の方へ駆け出した。 「私は、そんな感情を捨てきれなかった。途中で捨てられたら、諦められたら、こんなに苦しくなかったのかもしれない。」 「先生!!」  全力疾走しているのにただ座っているだけの先生に追いつけない。先生の声がいつの間にか崩れていった空間にこだます。止まっているはずの先生の後ろ姿がどんどん離れていった。 (待って、私はまだ伝えてない!あなたのおかげで私は…!) 「私は、信じているよ。きっと、きっとキミが―」 ―見つけてくれることを―  そう、言った気がした。 ――チリン  白んだ世界が音を立てて崩れていった。私はまた無意識の海に沈んでいく。私はまだ、大切なことを思い出せずにいた。
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