プロローグ

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プロローグ

 風がふわりと心地よく、子どもたちの楽し気な遊び声がこだまする。 のどかな平日の昼下がり、千代は幕末を賑わせた新選組屯所にほど近い壬生寺にいた。  今日は沖田の月命日。沖田というのは、いわずと知れた新選組一番隊組長、沖田総司のことだ。 阿弥陀堂を通り、小橋を渡って百六十年前に思いを馳せて、壬生塚に手を合わせた。     今頃、母の奈津子はボランティアの人たちに連れられたホームで、お年寄りに混じって楽しく歌を歌っている頃だ。 朝晩の食事と洗濯、掃除、母の介護に明け暮れる生活をもう三年も続けている。学校をさぼって、大阪の南部から通う京都遠征だけが心の拠り所だった。レンタルで借りた桔梗の小紋で街を歩けば、心が浮き立つ。古の都に紛れ込んだ町娘の気分だった。  その時、ぐらりと地面が揺れた。  震度四? 五? その場に立っていられなくてしゃがみ込んだ。 縦揺れの後に横揺れが一分ほど続き、やっと立ち上がると世界が一変していた。テレビの時代劇で見た世界が三百六十度パノラマで広がっている。 「ここは一体……?」  千代は動転した。あったはずの建物や多くの民家が消えて、代りに畑が広がっている。 「う、うそ、うそだ……」  寺の門をくぐり抜けると、土産物屋もカフェもなくなっている。信じられない光景に、今にも泣きだしてしまいそうになった。 「枝豆、どうどすか~」  ふいに後ろから声がした。頭に籠を乗せた物売りの娘に千代はすがるようにして訊いた。 「あの、すみませんが、ここはどこでしょうか?」  娘はきょとんとして答える。 「壬生村どすけど」 「壬生村? ほな、今は江戸時代?」 「江戸時代ってなんどすか?」 「将軍さまが江戸城にいる時代」 「それは、そうどす」 「ああ、やっぱり……」 「お客さん、大丈夫ですか?」  めまいがしたが、娘に礼を言い、八木邸の前まで来て、足を止めた。 『新選組屯所』と書かれた木札が玄関前に掲げられている。中を覗くと、浅黄色の隊服を着た若者たちが、庭で談笑したり、縁側で寛いでいる姿が見えた。隊士たちはちょん髷を結ったお侍さんのヘアスタイルをしている。 ああ、ここは本当に正真正銘、幕末なのだ。幕末の京都にタイムスリップしてしまったのだ。そんなことがアニメの世界じゃなく、リアルで起こるなんて、まさかまさかだ。  千代は困惑のまま、その場に崩れ落ちた。
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