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「藍美とはもう会わない」
ユウジにそう言われた時、あたしは驚かなかった。
ただそれが、何度目かのデートで、何度目かの食事をし、何度目かのベッドをともにした、その別れ際だったことに、ほんのちょっと、ずるいな、そう思っただけだった。
だって、「最後の一回」なんて、未練が残るだけじゃない。
「そう。わかった」
あたしはまっすぐユウジの目を見つめ、きっぱりした口調で言った。
その視線が、舞い落ちる枯葉に一瞬遮られる。再び見えたユウジの目は、斜め下方向にうつろに逸らされており。
「アキホのこと、大切にしなよ」
それでも視線を逸らさないまま、言わずもがなのことをつけ加える。ユウジはさらに目を泳がせた。
「あー……ああ、うん」
あたしは笑う。今更罪悪感? ケジメつけようとした今になって?
いや、だからか。
心を決めたから、あたしとのことに、罪の意識を感じてるのか。
「安心しなって。付き纏ったりしないから」
「うん。ごめん」
「いいってば。お互い様でしょ。あたしだって、彼氏いるんだし」
そう。だから、いつまでも続けられないんだと思ってはいた。
ただずるずると、何もはっきりさせないまま、曖昧で怠惰で卑怯な関係を、数ヶ月続けてきた、それだけ。
「じゃあね」
「うん、それじゃあ」
そう言ってお互い反対方向の電車に乗り込む。
帰路を辿るあたしの胸には、奇妙な満足感のようなものが広がりつつあった。
高校時代の同級生、しかも既婚者と、同窓会の後で……なんて、まるで安っぽいレディコミみたいな浮気のパターン。しかも奥さんも同じ学校出身ってオマケつき。クラス違うから来てなかったけど、あたしも知らない相手じゃない。
けれどもユウジとの関係には、筋書きの陳腐さにも関わらず、新鮮な驚きがあった。
結局のところ、あたしはいい気になっていたのだと思う。彼氏が二人目の相手で、そろそろ結婚の話も出てきそうで、男遊びなんて考えたこともなくて。そんな自分が、既婚者との関係に身を委ね、しかも楽しむことができる、その事実が、あたしを夢中にさせた。彼氏につく嘘さえ、どこか甘美なときめきを伴っていた。
だからこそ。本気になってはいけない、そう思っていた。略奪愛だの、泥沼の不倫関係だのになってしまったら、それこそ陳腐だ。お互いの生活を守りつつ、ただいい加減に遊び続けることだけが、あたしの望みだった。
もちろん、気づいていた。そんな都合がいいだけの関係、いつまでも続けていいわけがない、どっかでケジメつけなきゃって。
もう少し、ユウジが言い出さずにいたら、あたしの方から言っていたかもしれない。
だから、これでよかったんだ。
そう思っていた。
二ヶ月後。
首をすくめ白い息を吐きながら、あたしは彼氏が来るのを待っていた。
ツリーとイルミネーション。サンタやプレゼントのかざり。複数のクリスマスソングが交錯し不協和音を響かせる街。
手の中で振動したスマホの画面を見ると、高校以来の友人、ミユからメッセージが届いたところだった。
『今いい?』
『どうしたの?』
聞き返すと、すぐに返信が返ってきた。
『聞いた? アキホのこと』
ユウジの奥さんの名前。内心ドキリとする。
『聞いてない。何?』
『離婚したって。ユウジくんと』
『ええっ?』
『ユウジくんから切り出したみたい』
『うまくいってなかったのかな』
『アキホはうまくいってたつもりだったみたい。ただ、もうこれ以上続けられない、みたいに言われて、押し通されたって』
『なにそれ。納得したの?』
『してないけど、頑なで、受け入れるしかなかったみたいよ』
『なんか、びっくり』
『だよね。それで、ちかぢかアキホ誘い出して飲もうって言ってるんだけど』
『あ、うん。行けたら行く。決まったら連絡ちょうだい。あたし、これから待ち合わせだから』
『りょ』
内心、いけるわけないと思いつつ、スマホの画面を閉じる。
知られたわけじゃないんだろうけど……平気な顔で奥さんを慰めに行けるほど、図太い神経は持ち合わせていない。それに……
ユウジがいきなり別れを切り出した理由ってなんだろう? ひょっとして……まさか、あたしと……? もし、そうだったら……
困る。彼氏と別れる気なんかない。ユウジとの間に恋愛めいた感情が少しもなかったとは言わないが、彼氏と別れて本気で付き合うほどの覚悟、あたしにはない。
お互い、わかってたはずだ。
あたしのせいじゃない。
そう自分に言い聞かせながら顔を上げた時。
人混みの中に、ユウジの姿を見つけ、あたしは目を見開いた。
反射的に声をかけようと、足を踏み出しかける。と。
「どうしたの?」
はっとして振り向くと、そこには彼氏の姿があった。
「ううん」
焦りと安心感を同時に感じながら、あたしは言う。
「なんでもない。ちょっと……知り合いがいたような気がして」
「追いかける? 待ってるよ」
「いいの」
そうだ、声なんかかけられるわけがない。彼氏とのデートを控えた、こんな時に。
女の人……知らない、明らかにアキホとは違う人と、腕を組んでいるユウジになど。
そのあとどんな順序であたしが真相を知ったのだったか、正直よく覚えていない。
ミユから来たメッセージが最初だったか、ユウジが謎の義理堅さを発揮して電話してきた方が先だったか。
やり残していたロールプレイングゲームに一くぎりつけ、首をまわす。脈略もなく、あれから数ヶ月の間に知ってしまったことが頭をよぎった。
あたしはため息をつき、勇者を宿屋のカウンターに置き去りにしたまま、キッチンにお茶をとりにいった。
結論から言えば、結局のところ、本当に、離婚はあたしのせいではなかったのだ。
それどころか、あたしと別れた理由すら、アキホの……奥さんのためではなかった。
『お前より前から、続いてた相手なんだ』
あのあと、突然よこした電話で、馬鹿正直にユウジは言った。
『一度は別れたんだけど……その頃、同窓会があって、お前とああいうことになったわけだけど、結局……』
「別にいいけどさ、あたしだって本気だったとは言わないし」
あたしが言うと、ユウジはちょっと笑い声を上げた。
『そうハッキリ言われるのも寂しいな。俺は……それなりに、好きなつもりだったんだけど』
「ばか」
「ばか」
思い出して、もう一度、口にする。
馬鹿だ。本当に馬鹿だ。
なんの責任も、覚悟もなく、情熱すら曖昧で、なんの未来も期待していない相手に、そんなことを口にして、一体なんになると言うのか。
あたしは、ただテキトーに、心地よく、楽しく、気持ちいい時間を過ごせれば、それでよかったんだ。それでよかったのに。そのはずなのに。
作り置きのルイボスティーを一口飲んでテーブルに置き、ゲームを再開しようとコントローラーを手に取る。
宿屋の出口が村人で塞がっている。これでは建物を出られない。ようやく動いたかと思ったら今度は細い通路を塞いでいる村人がいる。
あたしはため息をついた。
あたしはこの村人たちと同じだ。
メインのプレイヤーでもないのに、好き勝手に動きまわり、主人公の行手を塞いで、やがては置き去りにされていく。自由なようで、決して村から出ることがない。
ユウジの物語にとってどこまでも脇役でしかなかった、あたしのように。
この人だけは、そう思っていた相手にまで去られてしまった、あたしのように。
溢れそうになった涙を、笑いに紛らわせる。
意味ないじゃないか。ノンプレイヤーキャラクターが、主人公の前以外で泣いたって。
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