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それからしばらくして、額の傷の治ったアリスは訪ねてきたヘンリとお茶をしていた。
彼は全くいつも通り、穏やかな表情でカップを傾けている。アリスも同様にしながら、彼を上目でじとりと見つめていた。
──冷静になって考えてみる。
あれは、額へのキスであった。おそらく。きっと。
現実主義で常に適切な距離感を保つヘンリが、あろうことか婚約者が眠っている隙にキスをするような男だったなんて。
わいせつだとなじりたいわけではない。彼にそんなロマンチックな一面があっただなんて、非常に意外なのである。
「どうかした?」
「えっ、いえなにも……」
視線に気付いたヘンリに問われ、アリスは慌てて顔を背けた。
「ヘンリ様、先日は夜会にご一緒出来なくてごめんなさい」
「いや、怪我が酷くなくてよかったよ」
恥ずかしくなって額を撫でる。もうガーゼはない。
擦り傷の赤い跡はわずかに残るけれども、すぐにそれも消えるはずだ。
「すみません、こんな恥ずかしい怪我を」
「生きていれば怪我をすることだってある」
「でも……、傷がある女なんてヘンリ様に申し訳ないですから。気を付けます」
そっと視線を上げると、ヘンリと目が合った。その顔には「なんで?」と言いたげに疑問符が浮かんでいる。
「アリス、君の身体は君のものだ。僕のものじゃない。だから僕に悪いだなんて思う必要ない」
真っ直ぐに目を合わせたヘンリの言葉に、アリスはどきりとした。
こういうところが好きだなあ、と思う。
普通の人だったら「傷があったって、僕は気にしないよ」と言うのであろう。だが、彼はそうではない。
一見、冷たく突き放したような言葉に聞こえるけれども、そこにはアリスを対等な一個人として捉えている彼の正義を感じるのだ。
アリスはなんだか気恥ずかしくなって俯いた。が、はっと気付いた。
そういえば額にキスをされたのだ。
自分を尊重してくれている彼が、寝ている隙に同意なしの接触を行ったということになる。
つまりそれは彼の個人的な意志、エゴということだ。垣間見えたヘンリの人間味に、アリスは心がむずむずした。
しかし、あの時はあまりにもドキドキさせられた。その後も思い出してはもやもやしていたのだ。一言なにか言ってやりたい。
アリスは出来るだけ冗談混じりに聞こえるよう軽く言った。
「そうですね。しかも怪我のおかげでヘンリ様にキスを頂けたのでむしろ幸運でした」
「ぶっふ!!!」
紅茶を噴き出してむせ込むヘンリの背を撫でる。彼の動揺っぷりに、頬が緩んでにやにやしてしまう。
「お、おお起きていたのか!?」
「起きていました」
「み、見舞いに行ったのに寝たふりをするなんて、良くないことだと思わないのか?」
「寝ている人間にキスするなんて、良くないことだと思わないのですか?」
ヘンリはぐぐぐと言葉に詰まってから、「……悪かった」と謝った。
耳まで赤くなった珍しい彼の姿に楽しくなる。アリスは身を乗り出してヘンリを覗き込んだ。
「……あの時はガーゼを貼ってましたけど、今はもう治りましたよ」
悪戯っぽく言外にキスをねだれば、ヘンリは目を丸くした。それから笑って、素早くアリスの額にキスを落とした。
恥ずかしげに眉を寄せる彼に、アリスは恋の予感がした。
《 おしまい 》
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