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宝物になる日
文章を書くことは楽しかった。書き始めた頃は何を書くべきか、どんな言葉遣いが正しいのか、悩みながら書いていた。そうしてRoomへの投稿を続けていくうちに、彰は拙いながらも自分自身の文章を書けるようになった。
彰は「おもち」というアカウント名を使った。自分の生い立ちや紗椰との馴れ初めだけではなく、日常のちょっとした場面を和やかに、時には面白おかしく書くようにもなった。
つくねからコメントが来たのは、そうした何気ない日常を綴ったエッセイだった。
つくねが投稿する記事は、主につくねの地元である北海道の写真や家族に関するエッセイ、短編小説等だった。写真に添えられる言葉、家族への想い、小説の中で描写される人物や風景。そのどれもが繊細で温かく、優しいものに感じられた。
彰は心療内科の主治医に、適応障害の治療には気分転換が必要だと言われたことがあった。心が弱っていたせいか、元々相性が合わないだけなのかは分からなかったが、彰は心療内科の主治医に心を開くことができなかった。そのせいで、月に一度のカウンセリングを有効に活用できていない気がした。だからせめて、自分で実践できるような治療法についてアドバイスをもらったら、記憶が鮮明なうちに日記に書いた。
気分転換するために必要なことは何か。それは人によって様々だが、多くの人にとって有効な手段は、世間の喧騒から離れ、何もかも忘れられるような場所へ旅行することらしい。
だがそれは実際には難しい。無職となった彰には数ヶ月分の失業保険以外に収入源は無く、生活費は最近紗椰が始めたパートの収入に頼るしかない。赤字が続く家計の中に、旅行の二文字が入り込む隙は無かった。
つくねが投稿する自然豊かな北海道の写真は、そんな彰の心を少しだけ旅させてくれた。写真からは、得られないものもある。映し出された風景の中を駆け抜ける風や匂い、鳥の鳴き声。つくねの記事にはそれらの代わりに、誰も傷付けることのない言葉が添えられていた。
彰が旅をするには、それで十分だった。
北海道石狩市にある、日本海に面したとある駐車場から撮影した夕日の写真に添えられたエピソードがあった。
つくねは既婚者らしい。当時恋人だった妻に、そのつもりではなかった言葉をプロポーズとして受け取られたという話だった。プロポーズではなく、何か「大事な話」をしたという。その詳細は書かれていなかったが、その日のことは強く印象に残っているようだった。
写真の夕日は、ありふれたものだが綺麗だった。つくねはそこに映る雲が、何の変哲もない雲だと分かっていながら、自分達を見守る女神に見えたと綴った。
彰は、紗椰にプロポーズした日のことを思い出した。大阪駅で輝いていた大きなクリスマスツリーとその光に照らされた紗椰は、彰が生涯忘れることのないものだった。
あの日のように、嘘みたいに心の蓋が軽くなるときが彰の人生にはある。きっとこの先も、そんな日が来る気がしている。何でもないようなものが、宝物になる日。
つくねの写真は、それを彰に思い出させてくれたのだった。
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