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悠人の家は木造アパートの二階角部屋だ。二階の通路には、狭い部屋に収まりきらなかったであろう他の住人の、壊れた電子レンジや埃をかぶったラジカセなどの雑貨がちらばっている。夜になり人の気配が薄くなったマンションに自らの足音が心もとなく響く。
玄関には、父の靴があったが、中から返事はない。父のゴムサンダルとワークシューズは無造作に思い思いの方向を向いている。悠人は空いたスペースに自分のランニングシューズを脱いだ。走り終わってランニングシューズを脱ぐたびに現実に引き戻される気持ちになる。現実と呼ぶにはずいぶん漠然としていて、輪郭のない生活。
廊下を進むと父は居間で腕をついてテレビを眺めていた。まるで同じ場所に置かれたままの写真のように、ほとんど毎日、悠人が帰ってくると同じようにしている。テレビに焦点があっているのかわからないほどぼんやりとした力のない目だ。そしてこの人の目から光を奪ったのは自分なのだ。あの日から父は大好きなお酒も飲まなくなった。
ニュース番組の音が垂れ流されて、静かな悠人の自室に少し漏れ聞こえる。一年中代わり映えのない野党が与党をなじるニュースも相まってこの家では時間が止まっているように感じる。この家では時間の流れがひどくゆっくりに感じられる。時間を推し進めるための要素が極端に少ない。部屋の壁に掛けられたカレンダーは、数か月前のままだ。
お互いにかみ合わない生活の中で、いつの間にか家での会話はなくなっていた。
悠人は諦めにも似た気持ちで、しょうがないかと、洗濯物の山からバスタオルを引っ張り出した。
あの日がなければ、あの出来事がなければ、と。思い出しかけている自分に気づき、すぐにその記憶を押しやった。もう何千回と行い、習慣となっている心の動作だ。
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