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大学を出て歩く事十分程度。レンガ調のタイルで美しく整えられたマンションがある。入り口のガラス戸には、ガーデンハイツ池友とマンション名が金の文字で描かれている。その前で立ち止まり、俺は一つ深呼吸をした。
「さて、行くか」
目指すは三階の一室。
俺は部屋の入り口であるドアの前に立ち、もう一つ深呼吸をしてからドアノブを握った。そして、力を込めて回す。抵抗なく回るドアノブ。ドアを手前に引くと、小さな音を立ててドアは動いた。その部屋の中は薄暗かった。カーテンを開けていないのだろう。
「咲綾……」
後ろ手にドアを閉めながら、俺は部屋の中にいるはずの恋人、谷城咲綾に呼び掛けた。
返事はない。だが、玄関には彼女の靴があり、それは外出をしていない事を示していた。
玄関で靴を脱ぎ、一歩踏み込むとそこにはキッチンがある。その向こうに、生活空間である部屋があった。そこへ入ると、薄暗い部屋の隅っこで壁にもたれた咲綾がスマートフォンを一人眺めていた。部屋が暗いせいで、バックライトに照らされた咲綾の顔が青白く光り、さながら音量の様でもあった。
「咲綾」
「……何?」
唇を尖らせた咲綾は、不機嫌を隠そうともしない。
部屋の中央に置かれた小さな座卓の上には、猫耳が乗っかっている。
先ほどその値段を知ったばかりの、例の猫耳と同じものだ。
朝から俺を呼び出した咲綾は、この猫耳を俺に差し出しながら言った。
「猫耳……つけて欲しいの」
「は? ふざけんな。絶対やだね」
「そんな事言わないで、絶対に会うと思うし。だって、君ってちょっと猫っぽいところあるし」
「知らねぇよ。なんでそんなもんつけなきゃなんねぇんだよ」
「だって……だってほら、今日は超猫の日だし……」
「超猫の日? だから猫の耳付けろって? そんな理由で誰が付けるか」
「違うの。そう言う事じゃなくてね、ほんとはずっとつけて欲しいなって思ってて……」
この辺りで俺は壁を平手でたたいて黙らせた。
そのまま咲綾の家を出て、大学へとしけこんでいたというわけだ。そうでもしなければ、胸に渦巻いていた怒りの感情を咲綾に全てぶつけていただろう。
だが、今の俺の心には違う気持ちが芽生えていた。
菅名の心の叫びが俺にそれを教えてくれた。
「……ゴメン」
「え?」
「猫耳……ふざけてたんじゃなかったんだな……」
俺は咲綾の前に正座した。
驚いたように咲綾が俺の方に目を向けた。
「勇気を振り絞って、言ってくれたんだよな」
「……うん」
「それに気づかなくて……荒っぽい真似しちゃって本当にゴメン」
「私こそ……猫の日に猫耳とか……馬鹿だよね」
「いや、違う。今こそ、だったんだろ? 今日こそが唯一のチャンスだと思って、言ってくれたんだよな」
咲綾は何も答えない。
だが、俺の中に確信があった。
「だって、この猫耳、高いんだよな。わざわざ買ってくれたんだろ?」
「えっ……なんで……」
「後輩に教えて貰ったんだ。別に、聞いたわけじゃなくて成り行きで……」
「うん……だって、絶対に会うと思ったし。それに……」
「分かってるよ。もう、言わなくても大丈夫だ」
「じゃあ……」
咲綾は座卓に這い寄り、その上に置いてあった猫耳を手に俺の方を振り返った。
「つけて……くれるの?」
ちょっと恐々な様子で咲綾は俺に尋ねた。
もちろん、俺の答えは決まっている。
「ああ、お前専用の猫になってやるよ。今日だけな……」
俺は咲綾の手から猫耳を受け取った。
そして、ためらいなくそれをそのまま頭に装着した。
恐ろしいほどに頭に馴染む付け心地だ。
まるで自分の頭の一部であるかのような装着感は、さすがの高級品としか言いようがない。
「ど……どう?」
咲綾の不安気な視線に、俺は心の底から溢れ出た言葉で答えた。
「にゃ~ん!!」
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