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カナちゃんは泣きだしそうな潤んだ瞳で、ジーッと俺の目を見た。
目を見て、心を覗いているのかなと思い、俺は視線を逸らさずに、できるだけ優しく、カナちゃんの瞳に俺が映り込むように微笑みかけながら見つめ合った。
カナちゃんは女性にしては、かなり身長が高く、多少厚底のスニーカーをはいているとは言え178㎝の俺と目線はさほど変わらない。
フィリピン酒場は繁華街にあって、その時間は人通りが多かった。
知らない人から見れば、俺とカナちゃんは、ズウタイのデカいカップルが二人の世界に入り込み見つめ合っているように見えただろう。
カナちゃんは、無言で俺を見つめ続けたまま、何分経っても見つめることを止めない。
カナちゃんの瞳には俺が映っているのだから、俺の瞳にはカナちゃんが映っているはず。
ということは、カナちゃんは、鏡の中の自分を、俺の瞳の中に発見して戸惑っているのかもしれない。
俺の世界の中にいる自分自身の、ご機嫌を伺っているのかもしれない。
カナちゃんは急に俺の両肩を両腕で捕まえて、顔を近づけ、鼻と鼻が触れ合うほど間近から俺の瞳を覗き始めた。
いつ偶然、唇が重なっても不思議ではない距離を、さらに躊躇なく縮めたカナちゃんの額と前髪が、もはや俺の額に密着している。
いつしか、お互いのまつ毛がパサパサと触れ合い、不可思議な沼のように大きく広がった瞳孔の奥には、もはや暗闇しか見えなくなってしまう。
瞳孔を取り巻くキノコの傘の裏のように美しく整った虹彩のヒダの隙間は深く、そこに魂が落ちてしまったら、もう二度と出て来られないように思われる。
ああ、こんな世界を俺たち人間は内包していたんだ。
いつだって見ようとすれば見えたはずの世界を、なぜ俺は今まで一度も見ようとしなかったのだろう。
まつ毛とまつ毛が触れ合う繊細な感触。
濃厚接触だ、ああコレは初めての、新しいカタチの濃厚接触だ。
やがて、カナちゃんの瞳の潤いは表面張力の限界を突破して、互いに絡み合うまつ毛を伝わり俺の瞳の中に、その涙をトロンと流し込んだ。
『あ・・』
心の中で俺は初めての感触に興奮した。
他人の涙を点眼された経験は、今まで一度もなかった。
俺の心は興奮に震え、なんだかいつまでも、こうしていたい気持ちになる。
トロン トロン トロン ・・
カナちゃんの涙は、惜しみなく俺の瞳を潤してゆく。
その温もりに満ちた魔法の水は、辺りに散りばめられたネオンの色を反射して神秘のオーロラのように俺を惑わせる。
オーロラの芳しい光は神の声となって俺の心に呼びかけて来る。
『人の心を弄んではならない。自分の心をも弄んではならない。いつも真っ直ぐでありなさい。与えられた喜びは受け止め、また同じ喜びを与えられる人になりなさい』
神さまの光に包まれた俺は胸が高鳴り、いつの間にか自らの瞳からも熱い涙が溢れていることに気づく。
街中で奇跡的に舞い降りた敬虔な時間。
「シミる! シミるぅ〜・・」
カナちゃんは、そう叫んで急に体を離した。
「ちょっとぉ! なんで?! めちゃシミるわぁ。タクミちゃんの涙。んもぅ、せっかく鏡の中の私が神秘の湖で身を清めるところだったのに・・」
「ごめんなさい。俺の涙、成分が濃かったかなぁ?」
「んもぅ! それくらいの準備して来てよ!」
「はい、今後、気をつけます・・」
って、何をどう気をつければいいんだ?!
前の日は刺激の少ない精進料理を食い、出会いの前には目薬をさすとか?
今まで、人に会うために、瞳の手入れなどした事がなかった俺は、新しい感動と新しい反省に動揺していた。
「タクミちゃん。私、なんだか疲れてふらふらだわ」
「そうだな、俺も疲れた。このまま、この店に入って何か食べる?」
「ケーキ屋さんがいい」
「あ、そう? この近くにケーキ屋さんあるかな?」
「たくさんあるよ。そこの3階は『グリーン・ハーツ』だし、あの信号の手前には『スウィーツ・リスペクト』あるし、道路挟んだ向こうの青い看板は『ブルーなピンク』よ」
「カナちゃんの行きたい店でいいよ。俺はケーキとか食べられないからさ」
「食べ・ら・れ・な・い? えっ? どういうこと?」
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