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 コツコツと乾いた足音が大理石の床を所在無げに彷徨っていた。  時折、かつての華やぎ賑わいを思い起こすように立ち止まり、しばらくしてまた歩き始める。    ふと男の視線が傍らを見た。永遠のように続く磨き上げられた鏡の中を走り過ぎる少年の影が、こちらを向いてニコリと笑った。  男は軽く頭を振り、再び足を運び始めた。  フランスのブルボン王朝の絶頂期に建てられた宮殿に憧れ、彼の最も好む湖の中央に建てられたこの城がそれらしい賑わいを得たのはほんの僅かな日々だった。 ーそれでも.....ー  かの人はここに、未完のヘレンキームゼー城に住んでいるのかもしれない。  かの人の憧れた『美しいもの』の中に身を置いて、ローエングリンの旋律に酔いしれているのかもしれない。  男はひとつ、大きな溜め息をついた。  過ぎ去った夢、一時の煌めきのうちに消え去った彼の太陽神(アポロン)の影は省みられることなく、忘却の淵に投げ捨てられた。  幸いにも湖の中の小島にあるこの夢の残滓は、かの人の憧れたそれのように、不粋な軍靴に踏み荒らされることなく、血に染まった男達の怒号に穢されることは無かった。 ー美しく、優雅で、崇高なものこそが至上なのだー  かの人は天を仰ぎ、声を震わせて芸術の神(ムーゼ)を賛美した。  その唇で進軍を命ずる忌まわしさに胸を掻きむしり、苦悶に身を捩り、嘆きの中に瞑目した。  ふと、背後に気配が立った。男はゆっくりと振り向いた。  瞬時、眼を見開いたが相手に気取られぬよう、恭しく左手を胸に当て、右足をわずかに引いて、頭を下げた。 『何を見ている、ユーリケ...』  男は声の主に厳かに答えた。   「あなたを見ておりました。わが君」 『私を?』  くすり......と小さく笑う吐息が耳を掠める。 『醜悪なる道化と化した私を見て、嘲笑(わら)っていたのか?』  哀しい淋しげな声音。 「いいえ......」    男は頭を振り、顔を上げた。  理知を示す秀でた額、遥か天上まで見透かすかのように澄んだ瞳、品の酔い通った鼻筋。そして心地よい薫風のごとき言の葉を紡ぎ出す、紅くい唇。  元よりきめの細かい肌は透けるように白く、浮かべた笑みの作る翳りがなお人の心を奪う。 「わが君はお美しゅうございます。永遠に......この地上の誰よりも」 ーあなたの魂はやはり、誰よりも美しい......ー 『永遠に.....か』  形の良い唇が僅かに歪む。 『ユーリケ......約束を覚えているか?』 「はい、わが君」  男は静かに首肯した。  指の長いすんなりとした手が男の前に差し出される。  男は恭しくその手を取り、口づけた。  目の前の存在はほんのすこし眼を細め、するりと男の手から指を引くと、午後の淡い光の中に溶けるように、消えた。 「ルートヴィヒ様......」  男は小さな呟きを残し、踵を返して、先程と同じ歩調で回廊を歩み始めた。    ゆっくりと、彷徨うように.....。    
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