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夕・母
5月、新緑が一斉に芽生え始める、この時期は、亡くなるの人が多いと言う。新緑芽生えるエネルギーに、少しでも危う人は押し潰されるそうだ、
余命宣告された日より、まだ永らえている母の人生は、どうだったのだろうと考える時間が増えた。
母1人子1人、母は未婚のまま私を産んだ、
私が生まれる2年前に会社を立ち上げ、主に映画を作る時に必要な人材派遣会社だった、小物、ヘアメイク、結髪、衣装、カメラマン、スクリプター、照明、AD等、個人事業主たちが、会社に入ってくれた。母が20代半ばで、業界で生きてきた強者達を束ねられたのは、70代の女性が母の後ろで支えてくれた、おかげだったらしい、今はもうない映画撮影所で働いていて、全ての映画作りに整通して、撮影所に一歩でも踏み入れた超大物俳優達でも、必ず挨拶に来る、映画界の陰のドンの女性らしい。
夢の世界の映画が生々しく、1人の女性の一言で右往左往し出す、
日本は男社会だと思っていた、母には新鮮で衝撃的だった。
そんな業界にどっぷり浸かり、産み育てる事が、難しいとは考えるまでの、経験がなかった母だった。
仕事が全て上手くいくわけではない、トラブルだらけだったらしい、それらを丸くするのが母の仕事だ。
映画作りは、生き物を育てるのと同じだと言っていた。
母の見誤りだった。
子供の子供だけの世界は残酷だ、母の子供時代は戦争という国家危機で教育も統制され、今の自由平等という名の元の、妬み嫉妬が渦巻く、子供の世界を知らず、我が子の傷が増えて、やっと気づいた。
母には私に、一流の教育を受けさせている自負があった。レベルの低い話だが、それが妬み嫉妬の元となった、
根底から覆得された母の矛先は私に向けた、もっと上手く出来ないのかと、出来ないから苦しんでいる私には、居場所が、なくなった。
自分の心が粉々に壊れそうになると、傷をつけた、
日に日に、深く、大きな傷をつけた。
今も、手、足にボコボコとたくさんの傷跡がある。一生この跡に、母も私も縛れている、。
母は若い頃から荒波にいた、子供の私も、居れると勘違いした。長年蟠りがあった。
母の人生の終わり近くで、あの頃の私に対する気持ちを知った
(夕、今日の学校どうだった、手も、足も傷だらけだね、なにが、そんなに辛いの、お母さんに夕の辛さ全部くれないかな、
ここが嫌なら引っ越しても良いよ、お母さんの仕事より、夕、あなたに笑顔になってもらいたい、生きて欲しい 笑って生きて、
お父さんがいない事で、こんなにあなたに不憫にさせるなんて、若い頃のお母さんは考えなかった、、、、、
お母さんが、、、、夕を辛くさせる原因なの、厳し過ぎた、誰にも負けない、夕になって欲しかっただけ、
お母さんの言葉が夕を辛くさせた、、、全て言い訳になるけど、仕事も大変で忙し過ぎて、お母さんの心に全く余裕が無くて、言葉で夕にあたっていたのね、
1人でも、夕を、ちゃんと育てて、2人で笑って生きようと思ってたのに、お母さんが悪かった、辛くさせて、、ごめんね、ごめんね、、
お願い夕、笑ってちょうだい、、、、
、、笑って、、
夕、ごめんなさい、ごめんなさい 、、
お願い夕、笑って生きてちょうだい)
夕は私の名前だ。
痴呆になった母は、自分のこころの中の、言えなかった後悔を、開放出来た、ずっと毎日覗いていたであろう、言葉の箱の中身を開放した。
当時、私が辛いと思っていた時、この言葉を母が私にくれたら何が変わったのかを考えた。
(お母さんありがとう、私は辛い、引っ越して欲しい)と言うのか。
(お母さん、私は辛くない、仕事頑張って欲しい)と言うか。
後者だ、私は母を守る、小さい時から決めていた。
たぶん当時、母が私に寄り添った事を言ってたら、私の足元が崩れて、生きていけない、
共倒れになる、たった2人だから、
居場所がない私は、人がいない場所を目指した
みんなを俯瞰できる場所は、楽に息が出来るように思っていた。
子供だった私も日々成長していた、立ち止まって見えても、大人の階段を登っていた、登る速さは人それぞれだ。
私はノーエル賞に近いところまで登ったが、候補になった時、辞退した。
私にも母と同じ悩みがある、息子の事だ。
息子に言えない事がある、私も開放出来る日が来るのだろうか、それとも偉人達がよく使う、墓場までもっていくのだろうか、
開放された言葉のエネルギーは、新緑の芽生えのエネルギーより強い、母はまだまだ大丈夫だ、
産声のエネルギーより、深く熟成されたエネルギーは尊い。
お母さん
「笑って 生きてちょうだい」 夕。
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