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ダイヤの原石
午後9時。夜の帷が辺りを包み、多くのサラリーマンが帰路に着くこの時間になっても蛍光灯が皓皓と光る場所がある。それはとあるオフィスビルの一室で、社内に残った数十名の社員が各々の机に座り、じっと手元の書類に視線を落としている。彼らは一様に真剣な顔をしてその文書を読んでいる。まるで古代文字の解読でもするみたいに、そこに書かれた文字を1つ1つ粒さに拾い上げている。
「いやー面白いわ」
ある男性社員が不意に声を上げた。書類から視線を上げ、緊張を解くように椅子にもたれかかる。
「最初はよくあるミステリかと思ったけど途中からどんでん返しの連続で、最後まで一気読みしちゃったよ。よっぽど念入りに筋書きを考えたんだろうね」
「私の方もなかなかいいですよ。」隣の席の女性社員が振り返った。
「恋愛小説なんですけど、主人公とヒロインが距離を詰めていくテンポが絶妙で。いい具合にじりじりしながら読めます」
「へぇそうなんだ。でも、素人なのにこれだけ書けるってすごいよね。現代人は読書離れが進んでるっていうけど、こういう作品見てるとまだまだ捨てたものじゃないって思うわ」
「わかります。そもそも小説を書いて、それを出版社に応募しようって思う時点ですごいですよね。毎年千以上の作品が集まりますし、それだけ多くの人が作家を目指してるってことですもんね」
女性社員が感心したように言った。2人はその後も、自分達が読了した作品がいかに素晴らしいかについて弁舌を振るっている。そう、彼らは出版社の編集者で、新人賞の選考のために夜を徹して作品を吟味しているところなのだ。
松下文恵は一番端のデスクに座り、自分も手元にある作品を読みながら、その会話を聞くともなく聞いていた。自分の担当する作家の作品が素晴らしければ、編集者として鼻高々になるのは当然だろう。たとえ相手がデビュー前の新人作家であってもだ。
(でも、私だって負けてないんだから。この作品なら絶対いい線いくはず)
文恵は心の中で呟くと、半分ほど読んだ作品に視線を戻した。表紙の中央部分に掲げられたタイトルと作者名が目に入る。
『朝焼けを迎えて 原田素子』
それはジャンルでいうと現代ドラマで、社会に出たばかりの新入社員が悩みながらも成長していく姿を描いた物語だった。登場人物の抱える悩みは誰もが一度は抱えるもので、文恵は自分が新入社員だったことの頃を思い返し、あの頃は若かったななんて思いながら作品の世界に浸っていた。
(来週の一次選考会、一推しはこの作品で決まりね。これだけいい作品なんだから、もっといろんな人に読んでもらわないと)
文恵はそう決意すると、作品の続きを読み始めた。この作品の魅力をアピールするにはどこに重点を置くべきか、編集者としての才覚を研ぎ澄ませて考えながら。
松下文恵は、『文栄社』という出版社に勤める編集者だ。社歴は今年で9年目。入社7年目から文芸部門に異動になり、小説を担当するようになった。
文恵は幼い頃から小説が好きだったが、有名な作品を読むよりは、無名作家の秀作を発掘することを好んだ。暇さえあれば書店や図書館に足を運び、いい作品を見つけると家族や友人に熱心に勧めた。文恵が進めた本の評判は上々で、周囲からの反応を見るたびに、文恵はますます使命感に駆られて知られざる名作を発掘しようとした。
文恵が出版社を志望したのも、まだ見ぬ名作を世に広めたいという思いがあるからだった。実際に内定を得た当時は飛び上がるほど喜んだものだ。私はいずれ立派な編集者になって、埋もれた才能を世に出す手伝いをするんだ――。そんな決意が文恵を奮い立たせていた。
そんな経緯で入社して9年、文恵は晴れて新人賞の選考に携わることになった。応募される何千作、何万枚もの原稿を読むのは想像以上に大変で、読むに堪えない作品も多かったが、逆に素晴らしい作品に出会える機会もあった。そういう作品に出会えると、文恵はぜひともこれを世に出して多くの読者の目に触れさせたいと思った。
先ほどの『朝焼けを迎えて』という作品も、文恵の目に留まった作品の1つだ。作者の『原田素子』の経歴を見ると、他の出版社の選考を通過した経験はないようだが、それでもこの作家には確かな才能があると文恵は感じていた。
ただし、新人賞の倍率は高い。『小説時代新人賞』の一次選考では、編集者は各自が読んだ作品の中から通過させたい10作品を選ぶ。そうして10人の選考委員が絞り込んだ100作品を、最初に読んだ編集者とは別の編集者が読み、選考会で協議した上で30作品まで絞り込まれる。そして一次選考を通過できるかどうかは、作品の質に加えて編集者のプレゼン能力も問われる。つまり作者と編集者の共同作業なのだ。
(この作品を通過させられるかは私にかかってる……。来週の選考会、頑張らないとね)
文恵はそう決意すると、頭の中でプレゼンの内容を練り始めた。すでに『原田素子』の担当編集者として、彼女と一蓮托生した気分になっていた。
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