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目を覚ますと私は菓子盆の上に寝転がっていた。
身を起こして周囲を見る。鮮やかな朱に塗られた円く広がる底面、それを囲むようにしてなだらかに反り上がる縁はまさに、幼少の昔日から連れ添った愛用の菓子盆に他ならない。健やかなる時、病める時、小腹の空いた時、何時も私はこの盆に菓子を並べ思うさま貪ったものであった。
しかしこれほど盆は大きかったであろうか、これほど私は小さかったであろうか。大福でもプチシューでもなく、今この盆上に並ぶ菓子は私であった。
これはどうしたことであろう。誰かが私を食うために盆に乗せたのか。あまり美味くはないと思う。元来菓子向きに出来た人間ではないのだから。
私は立ち上がって菓子盆の縁へと歩き出した。しかし盆上に広がる大地は見かけ以上に果てしなく、歩けど歩けど縁に辿り着く気配がない。
それでも呼吸を乱しながら進み続けていると、白い靄が掛かって見通せなかった盆の外に、何か巨大なものが聳えている様子が見え始めた。
それは栗色と焦茶色の艶やかな表皮を丸々と広げ屹立していた。仄かに漂ってくる甘い匂いが鼻中に流れ込み、腹がギュウギュウと渇望の声を上げる。
腹の音を奏でながら私は呆然と立ち竦んだ。
盆外に聳え立つあの巨体はまさか、栗まんじゅうではあるまいか。
しかもあの繊細玄妙にして見る者を魅惑する風貌、甘やかに空き腹をくすぐる馥郁たる芳香、まさしく老舗の名店たる万雷堂の栗まんじゅうに相違ない。
私にとって万雷堂は行きつけの店であり、栗まんじゅうは無上の好物であった。幾度となく買っては菓子盆に並べ置き、その端正な姿形を矯めつ眇めつ眺め、薄衣のような包み紙を恭しく剥がしては口に運び、風雅ながら気取りのない美味と歯触りとを繰り返し味わってきた。
しかし如何に万雷堂の名物といえど、天を衝くほど巨大な存在であっただろうか。ああも大きくては私の掌中に収まりそうもなく、手に取って食うなどとは途方もない夢物語に思えた。
腹をさすりながら私は滂沱と涙を流した。菓子盆は広大、栗まんじゅうは巨大、それに比べて私の肉体のなんと矮小無力なことか。盆上の愛らしいまんじゅうを眺めた頃の面影もなく、今や立場は入れ替わり、盆上のさほど愛らしくもない私をまんじゅうが眺めている。
「食うなら一思いに食ってくれ」
私は頬を濡らしながら叫んだが、栗まんじゅうは何も答えを寄越さず、ただ無情に佇んでいた。菓子に人の心はないのか。私の涙は勢いを増すばかりであった。
愛しい栗まんじゅうを前にしながら食うこともできず、愛しい栗まんじゅうに食われることもできない。耐え難い悲痛と食欲であった。私と私の腹は訳の分からない金切り声を上げ、か細く哀れな腕をまんじゅうの方へ向けて滅多矢鱈に振り回した。
どれほどの時間そうしていただろうか。気がつくと手の中に柔らかく懐かしい感触があった。私は瞠目した。奇妙なことにそれは紛れもなく、万雷堂の栗まんじゅうの手触りであった。
しかし手のひらを見つめてもそこには何もなかった。盆外で悠然と佇む巨大なまんじゅうにも変化はない。掌中に触れるこれは錯覚であろうか。先頃までの悲痛に代わって困惑が私の思考を支配した。食欲はそのままであった。
慣れ親しんだ栗まんじゅうの手触りに涎が湧き上がる。私は震える手を口元に近づけ、感触以外に何もない空間にそっと歯を突き立てた。
私の目から再び雫がこぼれた。しかし悲嘆の涙ではなく、私の胸中は歓喜に満ちていた。口内にはただ美味があった。数え切れないほど食らい愛した、万雷堂の栗まんじゅうの気高く優しい甘味であった。
私は夢中で手元の空間に齧りついた。驚くべきことに、私が空間を食らえば食らうほど、盆外の栗まんじゅうの巨体が削れていくようであった。一体私は何を食っているのであろう。掌中の虚空か、盆外の菓子か。何一つ理解できないまま私は食った。食うことだけがこの盆上世界において理解可能な唯一の道理であった。
やがて手の中の感触は消え失せ、盆外の栗まんじゅうもまた消えた。しかし遠方に目を凝らすと、また別の巨大な菓子の影が見え、私は安堵のため息を吐いた。
幸福に満ちて膨れた腹を撫でながら、私は朱い盆の底に身を横たえた。うとうとと瞼が落ち始める。満ち足りた肉体が眠りを欲していた。
再び目覚めた時、私はどうなっているのだろう。盆の外から菓子を眺めた頃に戻るのか。あるいはこのまま盆の上で菓子に眺められる時が続くのであろうか。
盆外の日々を懐かしく思うが、しかし盆上に天地あり、腹中にまんじゅうあり。いずれも美味い菓子を食うことに変わりはなく、菓子盆の外にいようと上にいようと、結局のところさしたる違いはないのかもしれない。
最早心に不安は無かった。微かに舌に残る甘さを味わい、心地よい満足に包まれながら、私は微睡みの底へ身を委ねていった。
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